シルクロード旅行記と奈良街道
2019-1-13 50名
コース
東大阪市市民プラザ(講演)ー熊野大明神、深江郷土資料館(通貨)ー道標ー
ー里塚ー玉津橋(平野川)ー奈良街道碑ー二軒茶屋跡ー東木橋北公園
(環状線玉造駅そば)
シルクロード旅行記を熱弁 |
講師 芝川明義氏
高校教員(地学)退職後 夢であったシルクロードの
旅を続けている
シルクロードの終着点が奈良という考えもある
パミール高原 |
ウルムチ(赤ん坊のミイラ) |
シルクロード (中国とローマとの間の主要貿易路)
1.南方路 敦煌からタクラマカン砂漠~パミール高原
2.北方路 敦煌からトゥルファン~ウルムチーイリ川流域にいたる
3、中央路 敦煌から楼蘭~コルラ(最も重要な隊商路として4世紀前半まで
使用されていた)
絹(シルク)が中国からこの道を通って西方に運ばれたところから ドイツの
地理学者リヒトホ-フェンが命名。絹の道。
2014年洛陽から長安を経て中央アジアに至る路線(全長8700㌔のうち5000㌔に
わたる部分を「長安 天山回廊の道路網」として世界文化遺産に登録された
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
暗越奈良街道
奈良時代の官吏にペルシャ人と推定される「破斯清通(はしのきよみち)」は
式部省大学寮に勤務していた
奈良がシルクロードの終着駅と考えると 大陸から来た人や品物は 難波から
生駒山地の「暗峠」を越えて奈良にいたる街道である
近鉄布施駅~歴史街道~JR玉造駅 |
駅前商店街 |
奈良街道、伊勢街道の説明 |
菅笠の里 |
菅笠の里
その昔深江村のなかにも 水路が張り巡らされ その水を利用して
菅田が点在していた
刈り取った菅で農閑期には副業として菅笠を編んでいた
その昔深江村のなかにも 水路が張り巡らされ その水を利用して
菅田が点在していた
刈り取った菅で農閑期には副業として菅笠を編んでいた
第11代垂仁天皇の御代に笠を縫うことを仕事とした一族がいた
歴代天皇の即位 伊勢神宮の遷宮に使用する笠(直径2m)を
献納していた
名はみちにける (千種中納言)
推し照る浪速菅草 置き古し
後は誰か着ん 笠ならなくに(万葉集巻 11-2819)
深江稲荷神社 大阪市東成区3丁目
御祭神 稲倉魂大神 (ウガノミタマノオオカミ)
猿田彦大神 (サルタヒコノオオカミ)
天鈿女大神 (アメノウズメノオオカミ)
垂仁天皇の御代、笠縫氏の祖がこの地に居を定め 下照姫命を奉祀したのが始まり
法明寺 大阪市東成区深江南3丁目
鎌倉末期の1318年(文保2年)大念仏寺7世で中興の
祖と呼ばれる 法明上人が両親菩提のための草庵を
結んだのを創紀とする
暗越奈良街道
大阪から奈良へ通じる旧街道として4~500年前に
開けた
大阪高麗橋を起点として西から東へと通じ暗越と呼ばれる
ように 生駒山系の暗峠を越える最短のコース
八里八町の官道(約3,4km)
平野川分水路
奈良朝から平安朝にかけて 百済の郡が置かれていたことから百済川とも
呼ばれていた
大雨になると毎年のように氾濫していたが 昭和33年に分水路が完成して
被害が減少した
火袋式傘型道標
「左いせ、なら道、八尾久宝寺道」と記された上部を四角にくりぬいて
”火袋”とし、上に笠をのせた珍しい道標。 文化3年(1806)
熊野大神宮
熊野大神宮ご祭神
伊邪那尊 イザナミノミコト
速玉男命 ハヤタマヲノミコと
事解男命 コトサカヲノミコト
大己貴尊 オオナムチノミコト
素蓋男命 スサノヲノミコト
奇稲田姫命 クシナダヒメノミコト
第31代 用明天皇(聖徳太子の父)が創建した神社
大坂城代は就任と領内巡視の時に参詣することを恒例としていた
妙法寺 大阪市東成区今里4丁目
聖徳太子の創建と伝えられる
近世国学の祖と言われる契沖が延宝7年(1679)~元禄3年(1690)住職をしていた
契沖 近世国学の始祖
学徳の高い真言宗の僧侶であり 万葉集を中心
とする古典の注釈 歴史的仮名遣いの研究
徳川光圀から託され「万葉代匠記」を完成する
暗越(くらがりごえ)奈良街道の道筋にあり 江戸時代初期には架けられていた
と考えられる 歩道は石畳風敷石が並べられている
中道本通警邏連絡所
奈良街道入り口付近にある当時の面影をそのまま
残している警邏連絡所(交番ではない)
戦争により周囲の家屋の大半が空襲で焼損する中で
唯一焼け残り 当時の姿を今日に伝えている
二軒茶屋:玉造に「鶴屋」「枡屋」の二軒が建てられ
旅人の休憩所として繁盛したと伝わっている
石橋:二軒茶屋のそばに流れていた猫間川に橋があり
宝永8年(1711)に石橋に架け替えられ正式に
黒門橋といった 大正13年に撤去された
猫間川
百済川に対して高麗川(こまがわ)といわれていた
のが訛って猫間川になった
阿倍野区に端を発し上町台地の水をあつめながら
東成区 城東区と森ノ宮の砲兵工廠の西北端で
平野川に合流していた 長さ4.5㌔川幅10m
昭和32年完全に暗渠化された
大阪の陣では真田幸村とともに猫間川が登場してくる
小松左京の「日本アパッチ族」にも登場している
推し照る浪速菅草 置き古し
後は誰か着ん 笠ならなくに(万葉集巻 11-2819)
深江稲荷神社 大阪市東成区3丁目
本殿 |
深江稲荷神社 |
御祭神 稲倉魂大神 (ウガノミタマノオオカミ)
猿田彦大神 (サルタヒコノオオカミ)
天鈿女大神 (アメノウズメノオオカミ)
垂仁天皇の御代、笠縫氏の祖がこの地に居を定め 下照姫命を奉祀したのが始まり
法明寺 大阪市東成区深江南3丁目
法明寺 |
鎌倉末期の1318年(文保2年)大念仏寺7世で中興の
祖と呼ばれる 法明上人が両親菩提のための草庵を
結んだのを創紀とする
道標 |
暗越奈良街道
大阪から奈良へ通じる旧街道として4~500年前に
開けた
大阪高麗橋を起点として西から東へと通じ暗越と呼ばれる
ように 生駒山系の暗峠を越える最短のコース
八里八町の官道(約3,4km)
平野川分水路
平野川分水路 |
平野川 |
奈良朝から平安朝にかけて 百済の郡が置かれていたことから百済川とも
呼ばれていた
大雨になると毎年のように氾濫していたが 昭和33年に分水路が完成して
被害が減少した
左 なら いせ道 |
火袋式傘型道標 |
「左いせ、なら道、八尾久宝寺道」と記された上部を四角にくりぬいて
”火袋”とし、上に笠をのせた珍しい道標。 文化3年(1806)
本殿 |
熊野大神宮ご祭神
伊邪那尊 イザナミノミコト
速玉男命 ハヤタマヲノミコと
事解男命 コトサカヲノミコト
大己貴尊 オオナムチノミコト
素蓋男命 スサノヲノミコト
奇稲田姫命 クシナダヒメノミコト
第31代 用明天皇(聖徳太子の父)が創建した神社
大坂城代は就任と領内巡視の時に参詣することを恒例としていた
妙法寺 大阪市東成区今里4丁目
妙法寺 |
本堂 |
聖徳太子の創建と伝えられる
近世国学の祖と言われる契沖が延宝7年(1679)~元禄3年(1690)住職をしていた
母 兄 契沖の墓 |
契沖 近世国学の始祖
学徳の高い真言宗の僧侶であり 万葉集を中心
とする古典の注釈 歴史的仮名遣いの研究
徳川光圀から託され「万葉代匠記」を完成する
高麗橋から4,7㌔ |
暗越奈良街道 |
平野川 |
玉津橋 |
と考えられる 歩道は石畳風敷石が並べられている
暗越奈良街道 |
中道本通警邏連絡所
中道本通警邏連絡所 |
奈良街道入り口付近にある当時の面影をそのまま
残している警邏連絡所(交番ではない)
戦争により周囲の家屋の大半が空襲で焼損する中で
唯一焼け残り 当時の姿を今日に伝えている
二軒茶屋跡 |
二軒茶屋:玉造に「鶴屋」「枡屋」の二軒が建てられ
旅人の休憩所として繁盛したと伝わっている
石橋:二軒茶屋のそばに流れていた猫間川に橋があり
宝永8年(1711)に石橋に架け替えられ正式に
黒門橋といった 大正13年に撤去された
猫間川跡 |
百済川に対して高麗川(こまがわ)といわれていた
のが訛って猫間川になった
阿倍野区に端を発し上町台地の水をあつめながら
東成区 城東区と森ノ宮の砲兵工廠の西北端で
平野川に合流していた 長さ4.5㌔川幅10m
昭和32年完全に暗渠化された
大阪の陣では真田幸村とともに猫間川が登場してくる
小松左京の「日本アパッチ族」にも登場している
JR環状線 玉造駅 |
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