2019年2月25日月曜日

穂谷なべ


 七草観察ハイキング
                            2019-1-27  18名
      コース
    穂谷公園バス停~~畦道・田んぼ(七草採集)~~穂谷狭戸線出合~
    ~穂谷トンネル~~えびこ道登り口~~野外活動センター

穂谷公園バス停

   集合場所にはちらほら
  
 
 「すずな、すずしろ」以外を摘みながら歩きましょう
  解らないときは 教えますから気軽に聞いてください



天気に恵まれのんびり歩く
弱りはてた狸に遭遇









農作用ため池
昔は氷が張ってスケートをして遊んだそうな
これ母子草?










洞穴の前で「僕らお地蔵さんになった」











                        
          子供の発想が面白い
               手に持ったポリ袋には摘んだ草が沢山入っていた(仕事してるなあ)


     テイカカズラの種














  地面のあちこちに2センチほどの白い綿毛が散らばっているのを子供たちが喜んで拾っ
  ていて女の子が差し出してくれる
  誰も「何の種」かわからない  どの子もたくさん拾っている
上を見上げてもそれらしいものがない

(式子内親王を愛した藤原定家が死後も彼女を
忘れられず 定家葛に生まれ変わって彼女の墓
にからみついたという伝説がある)
 
つる性常緑低木 有毒植物
6月頃に花を咲かせる
種子は長く白い綿毛があり風で飛ぶ

野外活動センター入り口
ここから急な坂道を登る


穂谷トンネル
穂谷狭戸線・生駒に通じる














なになに?

カラスウリ見ィつけた











  枚方市野外活動センター        枚方市穂谷

野外活動センター
枚方市野外活動協会  昭和36年に設立


活動内容
完歩ツアー 早春ハイキング 七草観察ハイキング
野草観察ハイキング 雪山登山 沢登り教室
30kmハイキング キャンプ場活動のお手伝い




  春の七草  せり なずな ごぎょう はこべら 仏の座 すずな すずしろ

     君がため 春の野に出でて 若菜(七草)摘む我が衣手に雪は降りつつ
         百人一首 古今集   光孝天皇のこころが歌われている

せり
      せり
  1ヶ所にせり(競)合って生えることから由来する

 「あかねさす 昼は田陽(た)びてぬばたまの
  夜の暇(いとま)に摘める芹子これ
      万葉集 葛城王(かつらぎのおおきみ) 

なずな





    なずな
   「撫菜」なでなから変化、なでたいほどかわいい葉
    薬功 止血 目の充血
   
    よく見れば なづな花咲く 垣根かな   芭蕉


                       ごぎょう(御形)
ごぎょう

  「母子草」
 「母」と「子」の人形(ひとがた)に由来する
  薬効 せきどめ
  別名「ほうこぐさ」
  茎も葉も白い細かな毛におおわれているために
  「ほうけた」ように見えるところから

  老いて尚 なつかしき名の 母子草   高浜虚子






はこべ

はこべ
「はびこりめむら(蔓延芽叢)が変化して「はこべら」
 になった
 薬効 歯槽膿漏 虫歯予防

「カナリヤ」の餌に束ねたる はこべかな」 正岡子規



ほとけのざ

    ほとけのざ 田平子(たびらこ)

    仏の座と呼ばれるのは 仏様の円座に似ている
    放射状に平らに広がるところから“田平”子
    若葉は食用になる

  
すずな




すずな
  「すずな」は蕪の昔の呼び名「鈴菜」とも書く
   薬効  しもやけ
   
   おく霜の一味付けし蕪かな    小林一茶



すずしろ

   すずしろ  (大根)

 「すずしろ」は大根の昔の呼び名「清白」とも書く
  中央ァジアまたは地中海地方が原産で中国経由で
  渡来 
 「古事記」に「大根(おおね)」という名で出てくる
  薬効  せきどめ 去痰
   


   穂谷なべ   

 
穂谷なべ
ご当地農畜産の材料をつかって

   牧場  豚肉  
   畠   大根  ねぎ  人参  白菜
   だし  鶏がら 牛乳   酒粕
  
 摘んだ 野草は選別されておかゆに炊き込まれた

あつあつの七草がゆ とっても美味しかった




おつかれさま









         解散後は国見山へのルートをたどってバス停まで下る
     


山間の道をあるくのは楽しい
国見山












 久し振りに足元に集中して歩き快い疲れであった!!



2019年2月17日日曜日

古地図でめぐる大阪


 コリアンタウンと明治の集落
                           2019-1-24  25名

  行程
  JR鶴橋駅(10:30)~平野街道~七福の辻~御幸森商店街(コリアンタウン)
   ~耕整橋~御幸神社~弥栄神社~明治集落跡~猫間川跡~JR桃谷駅(14:30)


講師西俣氏の説明












 生野区 人口 129379人 (7位)
     面積 8.37k㎡(13位)
     人口密度 15457人(10位)
     (大阪24区中ランキング)

平野街道




大阪市マンホール





右信貴山  



















     昔の闇市街を歩く


豚足 豚耳
キムチ










警察留置所跡
警察留置所跡の塀











     戦後の闇市で検挙された人が多かった

   七福の辻          生野区鶴橋3丁目 
  
             この猪飼野(いかいの)の地にコリアンが多く集住するきっかけ 
          が大正12年に始まった平野川(百済川)の埋め立て開削「治水工事」
七福の辻
  でもある
  その埋め立てられた「百済川」がこの辻のすぐ側を蛇行して流れて
  いた
  その川に架けられた橋につながる道がもう1本あって「七つ辻」で
  あった
正木牧場

  百済川が埋め立てられた頃から戦前
  まで生野区で最も賑やかな街だった
  商店街 芝居小屋 映画館 牧場も
  あった


七福の辻











  猪飼野一帯は第1次世界大戦をきっかけに日本の重化学工業化が猪飼野に済州人 
  を呼び寄せる誘因となっている                         
   内地労働者が著しく不足し絶海の孤島 済州に求めた              
  渡航した島人は優良職工として認められ需要度が増加

  1922年(大正11年)の「君が代丸」の就航が済州人の大阪行きに拍車をかけた
  それまでの釜山・下関経由にくらべて旅行日数は2分の1旅費は3分の1となっていた
  植民地化による土地収奪や日本の工業製品の参入が生活破綻し出稼ぎに追いやった
  {済州人は陸地(朝鮮半島部)の朝鮮人からも差別される存在だった}

  当初 猪飼野にやって来た済州人は 朝鮮人の経営する下宿屋に住んで工場に通った
  実に1畳あたり2.17人弱が住み そんな下宿屋にも住めず鶏小屋に住んだ人もいた
  当時 日本人は朝鮮人に家を貸すことを嫌い 甚だしきは「犬と朝鮮人はお断わり」
  と張り出す家主もいたという

 平野川  猪飼野新橋            生野区鶴橋5丁目


平野川
 猪甘津(いかいのつ)
 日本書紀に仁徳14年に「猪甘津」に橋為す 
 即ち 其の処を号けて 小橋(おばせ)と曰う
 
 周辺には猪飼野や小橋(おばせ)と地名が残っている
 この辺りの土地は古くから開けていた





高欄の支柱を勾玉
猪飼野新橋の親柱は前方後円墳型











  御幸森商店街(コリアンタウン)     桃谷3丁目


 全国で最も在日コリアンの人々が集中する地域である
 韓国食料品店 民族衣装店など約150店舗が軒を並べる

「御幸通り」の名称は5世紀頃 百済から渡来して暮らす
人々を仁徳帝が視察に訪れて 休憩した場所から由来する


チマチョゴリの店
たこきゅうりキムチ400g500円









  昼食タイム             

韓国料理 百済離宮

     塩タン                 
     和牛三種盛り 
     粗挽きソーセージ
     焼き野菜 
     キムチ三種盛り


炭火焼 焼肉料理













    珍しさも加えて誰も笑顔で箸がすすむ 

                    肉の焼き加減は個々で美味しい焼肉を楽しむ


  御幸森天神宮(みゆきもりてんじんぐう)     生野区桃谷3丁目
                         (旧摂津国東生郡猪飼野村)
御幸森天神宮

  主祭神  仁徳天皇 少彦名命 忍坂彦命
  創 業  406年

  古くから猪飼野とよばれ 猪甘津(いかいのつ)と
  呼ばれる港があった
  仁徳天皇14年に猪甘部(いかいべ)という官職を務
  める者が住んでいた
  猪甘部は朝廷への貢物として豚を飼育する役職である
   (野生のイノシシを飼育したかもしれない)



   付近は百済からの渡来人も多く 水鳥が集まる景勝地でもあった 
   仁徳天皇はこの辺りで休憩されたことから神社が建てられた
本殿
王仁博士の歌碑

 










   王仁博士の歌碑
  :難波津に咲くや この花冬籠り 今は春べと咲くやこの花:
   王仁博士は「論語」「千字文」など献上したと 「古事記」
   「日本書紀」にしるされているが実在の人物か定かでない

  弥栄神社(やえじんじゃ)        生野区桃谷2丁目


本殿











  神祖素戔嗚尊を文禄年間(桃山時代)に熊野巫神社(旧出雲国意宇郡)より分霊奉還
  したのがはじまりと旧記にある
  創立以来 旧木野村の鎮守として崇敬厚く宮座を設けて祭事を奉仕していた

  つるはし跡地

          この辺り鶴が多数飛来したことから橋の名となった
鶴橋の碑

長谷川貞信 つる橋の浮世絵














  文献にでている橋では最古のものといわれ 河内 大和への交通の要所で
  新平野川の開削により昭和15年に廃橋された

JR桃谷駅にて解散  15:00