2019年2月17日日曜日

古地図でめぐる大阪


 コリアンタウンと明治の集落
                           2019-1-24  25名

  行程
  JR鶴橋駅(10:30)~平野街道~七福の辻~御幸森商店街(コリアンタウン)
   ~耕整橋~御幸神社~弥栄神社~明治集落跡~猫間川跡~JR桃谷駅(14:30)


講師西俣氏の説明












 生野区 人口 129379人 (7位)
     面積 8.37k㎡(13位)
     人口密度 15457人(10位)
     (大阪24区中ランキング)

平野街道




大阪市マンホール





右信貴山  



















     昔の闇市街を歩く


豚足 豚耳
キムチ










警察留置所跡
警察留置所跡の塀











     戦後の闇市で検挙された人が多かった

   七福の辻          生野区鶴橋3丁目 
  
             この猪飼野(いかいの)の地にコリアンが多く集住するきっかけ 
          が大正12年に始まった平野川(百済川)の埋め立て開削「治水工事」
七福の辻
  でもある
  その埋め立てられた「百済川」がこの辻のすぐ側を蛇行して流れて
  いた
  その川に架けられた橋につながる道がもう1本あって「七つ辻」で
  あった
正木牧場

  百済川が埋め立てられた頃から戦前
  まで生野区で最も賑やかな街だった
  商店街 芝居小屋 映画館 牧場も
  あった


七福の辻











  猪飼野一帯は第1次世界大戦をきっかけに日本の重化学工業化が猪飼野に済州人 
  を呼び寄せる誘因となっている                         
   内地労働者が著しく不足し絶海の孤島 済州に求めた              
  渡航した島人は優良職工として認められ需要度が増加

  1922年(大正11年)の「君が代丸」の就航が済州人の大阪行きに拍車をかけた
  それまでの釜山・下関経由にくらべて旅行日数は2分の1旅費は3分の1となっていた
  植民地化による土地収奪や日本の工業製品の参入が生活破綻し出稼ぎに追いやった
  {済州人は陸地(朝鮮半島部)の朝鮮人からも差別される存在だった}

  当初 猪飼野にやって来た済州人は 朝鮮人の経営する下宿屋に住んで工場に通った
  実に1畳あたり2.17人弱が住み そんな下宿屋にも住めず鶏小屋に住んだ人もいた
  当時 日本人は朝鮮人に家を貸すことを嫌い 甚だしきは「犬と朝鮮人はお断わり」
  と張り出す家主もいたという

 平野川  猪飼野新橋            生野区鶴橋5丁目


平野川
 猪甘津(いかいのつ)
 日本書紀に仁徳14年に「猪甘津」に橋為す 
 即ち 其の処を号けて 小橋(おばせ)と曰う
 
 周辺には猪飼野や小橋(おばせ)と地名が残っている
 この辺りの土地は古くから開けていた





高欄の支柱を勾玉
猪飼野新橋の親柱は前方後円墳型











  御幸森商店街(コリアンタウン)     桃谷3丁目


 全国で最も在日コリアンの人々が集中する地域である
 韓国食料品店 民族衣装店など約150店舗が軒を並べる

「御幸通り」の名称は5世紀頃 百済から渡来して暮らす
人々を仁徳帝が視察に訪れて 休憩した場所から由来する


チマチョゴリの店
たこきゅうりキムチ400g500円









  昼食タイム             

韓国料理 百済離宮

     塩タン                 
     和牛三種盛り 
     粗挽きソーセージ
     焼き野菜 
     キムチ三種盛り


炭火焼 焼肉料理













    珍しさも加えて誰も笑顔で箸がすすむ 

                    肉の焼き加減は個々で美味しい焼肉を楽しむ


  御幸森天神宮(みゆきもりてんじんぐう)     生野区桃谷3丁目
                         (旧摂津国東生郡猪飼野村)
御幸森天神宮

  主祭神  仁徳天皇 少彦名命 忍坂彦命
  創 業  406年

  古くから猪飼野とよばれ 猪甘津(いかいのつ)と
  呼ばれる港があった
  仁徳天皇14年に猪甘部(いかいべ)という官職を務
  める者が住んでいた
  猪甘部は朝廷への貢物として豚を飼育する役職である
   (野生のイノシシを飼育したかもしれない)



   付近は百済からの渡来人も多く 水鳥が集まる景勝地でもあった 
   仁徳天皇はこの辺りで休憩されたことから神社が建てられた
本殿
王仁博士の歌碑

 










   王仁博士の歌碑
  :難波津に咲くや この花冬籠り 今は春べと咲くやこの花:
   王仁博士は「論語」「千字文」など献上したと 「古事記」
   「日本書紀」にしるされているが実在の人物か定かでない

  弥栄神社(やえじんじゃ)        生野区桃谷2丁目


本殿











  神祖素戔嗚尊を文禄年間(桃山時代)に熊野巫神社(旧出雲国意宇郡)より分霊奉還
  したのがはじまりと旧記にある
  創立以来 旧木野村の鎮守として崇敬厚く宮座を設けて祭事を奉仕していた

  つるはし跡地

          この辺り鶴が多数飛来したことから橋の名となった
鶴橋の碑

長谷川貞信 つる橋の浮世絵














  文献にでている橋では最古のものといわれ 河内 大和への交通の要所で
  新平野川の開削により昭和15年に廃橋された

JR桃谷駅にて解散  15:00

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