2019年11月27日水曜日

京都非公開文化財特別公開

東福寺塔頭正覚庵
               京都市東山区本町        2019-11-8
                
山門
宗派 臨済宗東福寺派
 本尊 釈迦如来
 開山 東福寺五世山叟慧雲(さんそうえうん
 開基 鎌倉時代(1290)
    奥州伊達家4代伊達政依(だてまさより)政宗の祖


筆塚




 筆塚  江戸時代(1804~1818)境内に築かれ
     11月23日に筆供養が行われ火にくべられ
     その煙を浴びると字が上達するといわれている

 筆供養塚  書家川浪青漣。日本画家西山翠峰。英雄。
                
本堂
屋久杉板の廊下




  







  昭和45年(1970)本堂の再建を検討中だった正覚庵に「白洲屋敷を保存するのに
  移転先を探している」と連絡がはいった。中学生だった先代住職の平住徹州さんは
  祖父らと見に行った。「素晴らしい建物で半分程を移すことになった」
  1974年に約285平方メートルの建物が移築された
  平住光洲住職は「白洲文平や次郎がもっていた粋な空気を伝える建物を大切に残して
  いきたい」と語る

茶室

楼閣
茶室の天井にはスギの小丸太が美しく
並べられ 白洲屋敷の玄関だったという











 白洲文平(ふみひら
 明治~大正時代に綿花貿易で財をなした
 大正末ごろに兵庫県伊丹市に建てた邸宅で
 息子で実業家の次郎も一時期住んでいたとされる



     一華院            京都市東山区本町
山門


 臨済宗大本山東福寺塔頭
 創建 東福第六十七世東漸(とうざん)禅師
 本尊 白位観音坐像室町時代
 寺号「一華院は達磨大師が弟子の慧可(えか)大師に
 与えた伝法偈(でんぽうげ)の中の一句で
 一つの華が五枚の花弁を開き やがて実を結ぶように
 自分の心の華を開くと言う教えである

彷彿石の庭(重森千青作庭)
白位観音坐像室町時代












依稀松の庭
禅語の「依稀たり松の屈曲 彷彿たり石の爛班」による
松の枝ぶりが龍や鳳凰の姿に似ている
石の斑紋は虎の姿にみえるが 実は一本の松でありただの石である
臥雲橋から通天橋を観る 
間もなく紅葉で観光客で賑わう


2019年11月7日木曜日

文学歴史ウオーク(尼崎)

尼崎城と城下を訪ねる
                             2019-11-3  54名
 コース
  阪神尼崎駅(9:00)ー本興寺ー尼崎障害学習センター(講演・昼食)-寺町     
 (専念寺、如来院、長遠寺、大覚寺、法園寺、甘露寺、広徳寺、善通寺、常楽寺、) 
  ー尼信会館-全昌寺ー機関銃掃射の塀ー開明橋ー櫻井神社ー尼崎城天守ー
  明城小学校ー大物橋跡ー大物主神社ー大物崩れ戦跡の碑ー残念さんの墓ー阪神大物駅
                                            解散
  講師  高田健一郎先生 
      著書  大和ノ祭り。西国街道。紀州街道・伝説と稗史(ハイシ)。他・・・

  本興寺                    兵庫県 尼崎市開明町        

本堂
三重宝塔

     宗派 法華宗本門流
  本尊 三宝尊
    創建 応永27年                                  (1420)
  開山 日隆
  開基 細川満元




御霊水井戸
日隆上人が掘られた不動不滅の霊水
三光堂
三光天子 鬼子母神 法華経信徒の守護神
 










鐘楼
日隆上人















11月3日は年に1度宝物虫干会の日で拝観者の大行列です

刀剣 数珠丸

刀剣数珠丸
日蓮上人が身延山を開山した時に信徒である波木井三郎が護身用に献上された 日蓮が太刀柄に数珠を巻いていたことから「数珠丸」の号が付いたとされる
天下五剣の中で唯一重要文化財指定である

高田健一郎講師



  ワンシビック尼崎 講義室・昼食
  尼崎城主の変遷
  細川高国ー晴元ー三好長慶ー松永久秀ー荒木村重ー
  池田輝政ー三好秀次ー建部政長ー戸田氏鉄ー青山氏ー
  松平氏
  廃城 明治6年(1873
 

寺町
 元和3年(1617)戸田氏鉄が尼崎築城を 命ぜられ 城下町形成の一環として寺院
 ばかりを集めて作った町江戸時代初期(1635)の絵図には20ヶ寺
 現在は11ヶ寺が軒を連ねている
寺町案内板
本興寺(法華宗)常楽寺(浄土宗)善通寺(時宗)専念寺(浄土宗)如来院(浄土宗)
長遠寺(日蓮宗)大覚寺(律宗)法園寺(浄土宗)甘露寺(浄土宗)立徳寺(臨済宗)
全昌寺(曹洞宗)
 
 機銃掃射の塀
旧尼崎市立開明小学校の塀の一部に太平洋戦争末期の
米軍機の機銃掃射による弾痕 昭和20年3月から8月まで
10数回の空襲で 死者479人家屋全壊11000戸
              罹災者42000人






     櫻井神社        尼崎市南城内               
社殿
桜花の屋根瓦

 祭神 桜井氏代々城主
 創建 明治15年(1882)





赤十字社の説明



  尼崎城最後の城主細川忠興は明治10年の西南戦で 
  敵味方の区別なく戦傷者を看護され
  これが世界赤十字に認められ日本の赤十字社の誕生を
  見るに至る

国学者契沖の碑





国学者契沖の生誕地である
寛永17年(1640)~元禄14年(1701)
真言宗の僧であり国学者である

  和歌の浦に至らぬまでもきのくにや
           心なくさのやまと言の葉


     尼崎城天守閣
復元天守

 
      別名   琴浦城 琴城 尼丘城
  築城主  戸田氏鉄
  廃城   明治6年(1873)






 1618年藩主戸田氏鉄が築いた4重4階の白亜の相塗籠(ヌリゴメ)天守、櫓が大阪湾から
   みると海に浮かんでいるように見える美しい城であった
(旧ミドリ電化創業者 案保詮は創業の地に恩返しがしたいと考え10億円以上の
 私財を投じて尼崎城復元した。  「一口城主」や「一枚瓦」の寄付も行っている)

旗印
鎧 陣羽織の試着体験









レプリカ
レプリカ













    本丸跡地に昭和15年(1940)明城小学校の教職員と児童が
    4月~7月(一学期)かけてコンクリートで建てた


 大物(だいもつ)くずれ戦跡    尼崎市大物町  
 戦国時代室町幕府の実権を握った細川氏は内部で対立で
 細川政元の養子高国と同じく養子澄元・晴元父子が対立
 尼崎の地でたびたび戦火を交え享禄4年(1531)両者決戦
 で高国勢は総くずれになり 大物の広徳寺で自刃した





                                        

 残念さんの墓     尼崎市杭瀬南新町
  
 長州藩足軽 山本文之助の墓
 元治元年(1864)の禁門の変に従軍していたが
 長州藩が敗北し 京都から敗走途中に大物の城下町で
 捕らえられ取り調べ中に「残念 残念」と叫びながら 
 自決した
 当時の「長州びいき」からおおくの人が参詣し    
「残念さん」に願をかければ 願いが叶うと密かな信仰
 となり残念さんと呼ばれるようになった

                                  おわり