天誅組のゆかりと伊勢街道宿場町
2019-12-1 42名
行程
JR森ノ宮駅(8:00)ー道の駅かつらぎー民族資料館長屋門ー桜井寺ー
リバーサイドホテルー栄山寺ー賀名生の里資料館ー道の駅かつらぎー大阪駅
トイレ休憩に立ち寄った「道の駅かつらぎ」は地産の新鮮な野菜 果物が盛り沢山に
並び誰もがついつい買いこんでしまった
民族資料館 奈良県五條市新町
道の駅かつらぎ |
トイレ休憩に立ち寄った「道の駅かつらぎ」は地産の新鮮な野菜 果物が盛り沢山に
並び誰もがついつい買いこんでしまった
民族資料館 奈良県五條市新町
五條代官所長屋門 |
民族資料館 |
天誅組
幕末に公卿の中山忠光を主将に志士達で構成された尊王攘夷派の武装集団が
大和国で挙兵する(8月14日)が幕府軍の追討(8月18日)を受けて壊滅した
文久3年(1863)結成時の同志は38人で(土佐脱藩浪士18人久留米藩浪士8人)
槍隊 鉄砲隊が編成され総勢1000人であった
8月14日 孝明天皇の神武天皇陵参拝の行幸の先峰となり京を出発
8月17日 奈良五條代官所を襲撃
8月18日 政変が起こり行幸は中止 挙兵の大義名分を失った天誅組は反乱軍
として追討される身になった
9月24日 その後吉野各地で転戦し抵抗を続けたが東吉野村で殆どが全滅した
志士達の霊は京都霊山護国神社に祀られている
天誅組の顚末を熱く語る |
天誅組出発の絵 |
天誅組記念碑 |
明治維新発祥地記念碑 |
幕末の政局に翻弄された天誅組の行動は失敗におわったが その後の倒幕運動につらなり
明治維新のさきがけになったとされている
新町通り 奈良県五條市新町
吉野川下流沿いに開けた大和盆地の西南にあたる五條市は古くから大阪と紀伊を
大和五条新町通り |
松倉重政頌碑 |
慶長13年(1608)松倉豊後守重政は関ヶ原合戦の功績によって1万石余りの大名
として二見城に入りました そしてすでに町場として栄えていた五条村とを結ぶ
地域に吉野川と並行する道路に沿った町割りを施行して新町をつくり南和地域の
中心として発展する基礎を築いた
栗山家住宅 |
日本最古の民家で慶長12年(1607)の棟札を持ち
当時の有力商人の家
入母屋造り 本瓦葺の反りの強い屋根は特に目を引く
道標 |
東に向う道を伊勢街道
西に向う道を紀州街道
二畳一間の勉強部屋 |
木村篤太郎(1886~1982)は吉田茂内閣では司法大臣 法務大臣 保安庁長官を歴任した
戦後GHQによって禁止された剣道の復興に力をつくし 初代会長も務めた
幻の五神鉄道場 |
幻の五神鉄道場
五條から紀伊半島を縦貫し和歌山県新宮までを結ぶ
計画であった(大正12年)
昭和56年(1981)国鉄再建問題で事業が凍結された
吉野川 |
吉野川の上流に目をこらしていると「高見山」が発見され歓声があがりお互いが指差して確認された (霜柱のたった山道を歩いていた若い時の情景を懐かしく
思い出す)
桜井寺 奈良県五條市須恵
山号 閏生山
宗旨 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
創建 桜井康成 天歴年間(947~957)
文久3年(1863)8月に五條代官所を襲撃した天誅組は
この寺に本陣を置き五條仮政府と称した
代官鈴木源内ら5人の首を洗った手水鉢 |
槍尻の傷跡 |
リバーサイドホテル (昼食タイム) 奈良県五條市新町
刺身、紙鍋の豚汁、茶碗蒸し |
ここはのんびりしている おおらかで国宝が二つもあるお寺にもかかわらず
開放的で格式張ってないところが奈良らしい
本堂。石灯篭(重要文化財) |
山号 学晶山
宗旨 新義真言宗
宗派 真言宗豊山派
本尊 薬師如来
創建 伝 養老3年(719)
開基 伝 藤原武智麻呂
本堂 藤原鎌足の孫藤原武智麻呂が菩提寺として創建した
南北朝時代に南朝の後村上天皇、長慶、後亀山天皇の行在所が置かれていた
石灯篭 弘安7年(1284)の銘があり栄山寺型と呼ばれている
梵鐘(国宝) |
八角堂(国宝) |
八角堂 藤原武智麻呂の菩提を弔うために子の仲麻呂によって建立された
夢殿に似たこの堂は内壁などに極彩色の仏画が残り天平時代を代表する
梵鐘 「平安三絶」の鐘に数えられている梵鐘で 銘文の撰者が菅原道真で
筆者が小野道風と伝えられている
京都神護寺 宇治平等院とともに日本三名鍾一つと言われている
賀名生の里 旧吉野郡西吉野村
南朝の 歴史や資料を展示 |
丹生川沿いの谷筋に位置する
後醍醐天皇から賜った「日の丸」 |
堀家の行宮跡 |
冠木門に掲げられていた |
西吉野村の郷士堀太郎信益は後醍醐天皇を厚くもてなした
その後も後村上天皇、長慶、後亀山天皇もこの地に
来た時は堀家が皇居になったらしい
賀名生の里皇居の説明 |
歴史資料館長屋 |
南北朝時代に思いを馳せるのもいいかな
終わり
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