2017年2月9日木曜日

葦の会


伏見丘陵を歩く(京都一周トレイル・深草コース)
                                   2017-2-1   27名

  スケジュール [歩数] 約18,000歩  [距離」 約8,5 ㎞

    京阪 藤森駅集合ー大岩山(182m)-古御香宮ー仏国寺ー伏見桃山城ー
    -伏見桃山陵(明治天皇陵)-乃木神社ー御幸宮神社ー京阪 伏見桃山駅



京阪 藤森駅
出席者名 確認







大岩神社入り口
大岩街道を歩く

堂本印象寄進の石鳥居

堂本印象(日本画家)
1891~1975
母が熱心な大岩明神の信仰者
鳥居をくぐり岩瀧社へ
磐座には「岩瀧大神」と刻まれている」
  岩瀧社














石鳥居の彫刻
大岩神社
  創建不明  大岩と小岩という二つの石を男神・女神として祀っている 古くから
  「難病の神」として知られ特に心の病や結核平癒にご利益があると信じられていた
   結核が不治の病だった時代には篤い信仰を集めたそうです

長い石段を登る
大岩神社











  神社本庁に属さない単立の神社で 江戸時代の地誌には「深草山」とあるだけ
  江戸時代の山火事で古文書は焼失
  大正元年の「伏見桃山歴史地図」では 大岩山の名前と山上に神社の記号がある 
       大岩山山頂(184m)は元桃山ゴルフ場内にある
大岩道


平安の昔 深草少将が山科に住む小野小町に逢う
為に百日通ったと言われれる道であり 

明智光秀が秀吉に敗れて山科の小栗栖(おぐるす)へ逃れる道もこの道で 
又戦後食糧難の為に母に付いて買い出しにリュックサックをかついで小栗栖の里へ歩いたのもこの道であり感慨深い



京街道(伏見街道)徳川家康は大名が京都の公家と接触するのを禁止したため
滋賀の大津宿の先の髭茶屋から伏見 枚方を経て大阪高麗橋に至り東海道57次になる 
                                       伏見宿、淀宿、枚方宿、守口
 山科追分ー山科大塚ー大谷甲ノ辻ー勧修寺ー深草―久宝町ー藤森ー墨染ー伏見・・・・・
大岩道は山越になるが近道で土地の人はこの道を歩いた

展望台からの眺め左の黒い建造物が伏見城 右よりの黒い建造物は京セラ本社
展望台から  大阪ビル群 伏見桃山城 石清水八幡宮 淀川 天王山270m   
    ポンポン山679m 京セラ本社ビル 善峰寺 小塩山642m 半国山774m   
    龍谷大学深草キャンパス 嵐山 愛宕山944m 東寺 を確認する

この大亀谷の朝採り筍をよく食べたよ


古御香宮(ふるごこうのみや)









 

古御香宮(ふるごこうのみや)
 豊臣秀吉が文禄3年{1594)伏見城を築いたとき御香宮をこの場所に移した その後
 徳川家康が慶長8年(1603)に元の場所に移した
仏国寺境内に小堀遠州の墓

仏国寺









 

  宗派 黄檗宗                          小堀遠州(1579~1647)
  本尊 釈迦三尊                           近江生まれ作事奉行 
 創建 延宝6年{1678)                     仙洞御所 名古屋城天守閣
  開山    高線性敦                                                             二条城御御殿 など建築 
                             遠州流茶道の祖
                              墓は大徳寺弧蓬庵にもある                            


八科峠(やしなとうげ)標高95m(右 京みち 左 六ぢぞう)
 伏見市街と大亀谷を結ぶ上板橋道と六地蔵と墨染を結ぶ墨染道
 の交差点で道は狭いが交通量が多い
 大名の屋敷跡地地名
    黒田官兵衛の屋敷跡推定(八科峠)深草大亀谷敦賀町
    前田利家     深草加賀屋敷町
    上杉景勝     景勝町    
             石田三成     治部町
    伊達正宗     桃山正宗

  伏見桃山城
  











伏見桃山城に到着(12:15)昼食タイム


伏見桃山城  別名 桃山城, 指月城, 木幡山城, 
築城主 豊臣秀吉 文禄元年(1592)  廃城 元和9年(1623) 
慶長伏見地震 文禄5年7月(1596)秀吉は無事であったが 女﨟73名仲居500名死亡
地震の2日後から城の建設が始まり 建設資材はかなりの部分が再利用され翌年5月に
天守閣が完成された

関ヶ原の戦いの際には家康の家臣鳥井元忠が伏見城を守っていたが 西軍に攻められて
大半が焼失した
1602年家康によって再建されるが1623年に廃城になり開墾されて桃の木が植えられたので桃山の地名が残る 本丸跡など主郭部分はのちに明治天皇の陵墓になった

因みに 50年前に住んでいた桃山最上町の畑地の中には2か所に井戸があり金水 銀水と言われ美味しい水であった茶の湯に使っていたらしい(立札が野ざらしで荒れていた)

又家から坂道を300m上ると住職が尼さんのお寺があった
徳川家康は側室お亀の方を寵愛し 城内の山荘御殿に住まわせ生まれたのが
五郎太丸で後の尾張藩初代藩主 徳川義直である

この山荘は後に尼寺清涼院となり地名は大亀谷五郎太町である 

伏見桃山陵
明治天皇陵

砂利道の参道1km










   明治天皇は生前この地をお気にいられ ご遺言により(伏見木幡城本丸跡)に   
  土葬して祀られる(15歳即位 59歳崩御)
230段上ると御陵


昭建皇太后陵
(伏見桃山東陵)大正3年64歳崩御










乃木神社





梅1輪1輪ほどの温かさ




乃木希典・静子夫人を祭る 大正5年建立

日露戦争 難攻不落といわれた旅順要塞を3回にわたって
総攻撃して陥落し市民から「乃木さん」といわれ英雄になる

戦闘で息子2人の戦死よりも兵士6万人近い死傷者を出したことは痛恨の極みであった

明治天皇大葬の儀の日 明治45年9月13日に乃木は軍服 静子夫人は紋付で殉死
辞世の和歌 
     うつし世を 神さりましし大君の みあとしたいて 我はゆくなり 
  御香宮神社
表門(伏見城大手門)

参道

創 建 不詳 
祭 神 神功皇后





蟇股には中国二十四孝の彫刻

御香水











貞観4年(862)の記録伝承によると境内より良い香りの水が湧きだしその水を飲むと病が治ったので 時の清和天皇から「御香宮」の名を賜った
表門を見上げると立派な彫刻の蟇股(かえるまた)である
中国二十四孝を彫ったもので 楊香、敦巨,唐夫人、孟宗の物語の順にならんでいる

楊香(ようこう)
父と山に行った際に虎が躍り出て 2人を食べようとした・・・・楊香は父が食べられ
ないように「天の神よ どうか私だけを食べて 父を助けてください」と願ったところ
猛り狂っていた虎が尻尾を巻いて逃げて 父子共に命がたすかった

郭巨(かくきょ)
貧しい郭巨に子供が生まれたが貧しかった、母が孫に自分の食べ物を分けて食べさせて いるのを見て3才の我が子を地面に埋めようと涙を流しながら 掘っていると黄金の釜が 

出てそこに「孝行な郭巨に天からこれを与える他人は盗ってはいけない」と彫られている
郭巨と妻は黄金の釜をいただき家に帰って さらに母に孝行を尽くした

唐夫人(とうふじん)
姑の長孫夫人に歯がないので乳を与えたり毎朝姑の髪を梳いたり様々の事で仕えていた
長孫夫人は死が近づいたときに子供たちに「嫁の孝行を真似るならば 将来繁栄する
であろう」と褒めた

孟宗(もうそう)
病気の母が冬に筍が食べたいと言ったので竹林に行ったが冬にあるはずもない

涙ながらに天に祈りながら雪を掘っていると 雪が解け土の中から筍がでてきた
熱い汁ものを作って母に与えると 病も癒えて天寿を全うした


          改めて伏見城の大手門であった表門を見上げる
                                  おわり

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

公言してたように、乃木神社の前の小学校が私の母校です。周辺は遊び場。この土地に来ると、一瞬にしてランドセルを背負った児童になれます。優しい当時の母も若くて元気。思い出はとても幸せな気分にしてくれます。あなたのご主人もこちらの卒業生でしたね。私はご主人の後輩ですねーいやはや若輩者・ごまん-

ITO さんのコメント...

いやはや タイムスリップしましたねえ 昭和が懐かしいですね  

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