2017年2月27日月曜日

枚方山歩きの会

   淀川ウオーク
       枚方大橋~大阪城
                         2017-2-26   31名

  コース  ラポール枚方~大間公園・太子地区~豊里大橋~城東貨物線・赤川鉄橋
       ~毛馬の閘門~毛馬橋~藤田庭園~大阪城公園


      天気晴朗 29名元気に出発   (2名は途中「豊里大橋」付近から参加)


枚方大橋

    枚方大橋  国道170号
         大阪府道 京都府道6号 
       大阪府道139号



淀川新橋
 
 淀川新橋  高槻市柱本と寝屋川市太間町に架かる橋
       昭和48年(1973)に建設 




鳥飼仁和寺大橋













鳥飼仁和寺大橋

寝屋川市と摂津市を結ぶ有料橋 
通称100円橋 普通車100円 大型車160円 360円 軽車両10円
1987年に鳥飼大橋の渋滞緩和と利便性ために建設された


鳥飼大橋
鳥飼大橋
摂津市鳥飼西と守口市大日町に架かる橋
モノレール橋 高速道路橋 道路橋2本 計4本の橋 





豊里大橋










豊里大橋


 歴史 奈良時代 僧行基は全国を布教しながら灌漑施設や橋を建設しておりその一つに
    高瀬大橋は 現在の豊里大橋の近く架けられたと推定される 
    
    江戸時代前期から「平田(へいた)渡し」があった 明治時代は村営から府営に
    大正時代は大阪市営に昭和35年には手漕ぎから発動機船 になり1日約3000人と
    自転車を共に運んだ

    本橋は万国博覧会の関連事業として昭和45年に完成した 橋梁の規模は当時と
    しては最大で 斜張橋の技術発展にも大きく貢献し


菅原城北大橋

菅原城北大橋  完成 平成元年
 豊里大橋は数本のケーブルで力強く橋桁を支えて男性的
であるが この斜張橋は多本数のケーブルで力を分散
して支えているので優雅で女性的ある


城東貨物線(赤川鉄橋)



            城東貨物線(赤川鉄橋)
      貨物車専用の単線鉄道と歩道が並列され鉄道
     フアン人気がある
 
                    


わんど
   わんどの生きもの

  天然記念物のイタセンバラ
  ヒメタニシ カマツカゼゼラ イシガイ
  ドブガイ  カワヒガイ  ヨシノボリ
  アユモドキ ゲンゴロウブナ  ウナギ
 ギンブナ  コイ
与謝野蕪村句碑




               与謝野蕪村句碑



  淀川改修百年記念として昭和53年(1978)に建てる
  碑文は与謝野蕪村直筆の句を拡大したもの
 
      春風や 堤長うして 家遠し
  蕪村は享保元年(1716)摂津国東成群毛馬村(都島区毛馬町)に生まれた

           毛馬閘門(けまのこうもん)
毛馬洗堰
毛馬閘門










   毛馬の水門は淀川と旧淀川(大川)の水位差により困難となる船舶の通過を

   スムーズにさせるための設備

  ・ 明治40年(1907)「毛馬閘門」が完成・・・現在は公園施設になっている
  ・ 下流に二つめが大正7年(1918)設置・・・・現在は舟留まりとして使用
  ・ 昭和49年(1974)に現在使用されている閘門が完成
  ・ 昭和58年(1983)現在の淀川大堰・毛馬排水機場が完成した


トイレ休憩

  歩数計「27000歩」になってるうーーーー
  へえーこっちは「26000歩」でっせーーー

  ゆっくり休憩気分になったらあかんよーーー
  まだ 大阪城まで頑張って歩いてくださあいーーー
  チョコレートの甘さがありがたいよーーー



砂場バレーボール



 
公園施設に海岸のような砂場があり 若者のはずんだ
 掛け声が空中に飛んでいる




藤田庭園
藤田庭園

藤田財閥の敷地の一部で「桜之宮公園」の一部となって
無料公開されている

西は大川 南は大阪市公館 南東は藤田美術館 
東は太閤園




               大阪城梅園


    梅園は内濠の東側に約1、7haの広さに1270本
   大阪万博後 北野高校同窓会から22種 880本寄贈された 現在100品種 1270本



  

鷹匠が鷹の訓練をしていた 鷹は合図されると濠の向こうに待っている鷹匠の手に止まり
再び向こうからこちらの鷹匠の腕に見事に戻って来る









珍しいもの見たさでくろやまの

                   
鷹が放たれたそこへ烏が上から必要に飛びかかるが 鷹は巧みにすり抜けた

一瞬の出来事に感動した



 梅の鑑賞に様々の人がゆっくり歩いている
 若い女性のグループ 車椅子のお婆ちゃん

 外国人のカップルがけっこう多い
 カメラの角度を変えては手早く写す人 




         城は豪華に聳えていた         
    

                              
     今年も又梅見て さくら 藤 もみじ         西鶴句
                                         

2017年2月9日木曜日

葦の会


伏見丘陵を歩く(京都一周トレイル・深草コース)
                                   2017-2-1   27名

  スケジュール [歩数] 約18,000歩  [距離」 約8,5 ㎞

    京阪 藤森駅集合ー大岩山(182m)-古御香宮ー仏国寺ー伏見桃山城ー
    -伏見桃山陵(明治天皇陵)-乃木神社ー御幸宮神社ー京阪 伏見桃山駅



京阪 藤森駅
出席者名 確認







大岩神社入り口
大岩街道を歩く

堂本印象寄進の石鳥居

堂本印象(日本画家)
1891~1975
母が熱心な大岩明神の信仰者
鳥居をくぐり岩瀧社へ
磐座には「岩瀧大神」と刻まれている」
  岩瀧社














石鳥居の彫刻
大岩神社
  創建不明  大岩と小岩という二つの石を男神・女神として祀っている 古くから
  「難病の神」として知られ特に心の病や結核平癒にご利益があると信じられていた
   結核が不治の病だった時代には篤い信仰を集めたそうです

長い石段を登る
大岩神社











  神社本庁に属さない単立の神社で 江戸時代の地誌には「深草山」とあるだけ
  江戸時代の山火事で古文書は焼失
  大正元年の「伏見桃山歴史地図」では 大岩山の名前と山上に神社の記号がある 
       大岩山山頂(184m)は元桃山ゴルフ場内にある
大岩道


平安の昔 深草少将が山科に住む小野小町に逢う
為に百日通ったと言われれる道であり 

明智光秀が秀吉に敗れて山科の小栗栖(おぐるす)へ逃れる道もこの道で 
又戦後食糧難の為に母に付いて買い出しにリュックサックをかついで小栗栖の里へ歩いたのもこの道であり感慨深い



京街道(伏見街道)徳川家康は大名が京都の公家と接触するのを禁止したため
滋賀の大津宿の先の髭茶屋から伏見 枚方を経て大阪高麗橋に至り東海道57次になる 
                                       伏見宿、淀宿、枚方宿、守口
 山科追分ー山科大塚ー大谷甲ノ辻ー勧修寺ー深草―久宝町ー藤森ー墨染ー伏見・・・・・
大岩道は山越になるが近道で土地の人はこの道を歩いた

展望台からの眺め左の黒い建造物が伏見城 右よりの黒い建造物は京セラ本社
展望台から  大阪ビル群 伏見桃山城 石清水八幡宮 淀川 天王山270m   
    ポンポン山679m 京セラ本社ビル 善峰寺 小塩山642m 半国山774m   
    龍谷大学深草キャンパス 嵐山 愛宕山944m 東寺 を確認する

この大亀谷の朝採り筍をよく食べたよ


古御香宮(ふるごこうのみや)









 

古御香宮(ふるごこうのみや)
 豊臣秀吉が文禄3年{1594)伏見城を築いたとき御香宮をこの場所に移した その後
 徳川家康が慶長8年(1603)に元の場所に移した
仏国寺境内に小堀遠州の墓

仏国寺









 

  宗派 黄檗宗                          小堀遠州(1579~1647)
  本尊 釈迦三尊                           近江生まれ作事奉行 
 創建 延宝6年{1678)                     仙洞御所 名古屋城天守閣
  開山    高線性敦                                                             二条城御御殿 など建築 
                             遠州流茶道の祖
                              墓は大徳寺弧蓬庵にもある                            


八科峠(やしなとうげ)標高95m(右 京みち 左 六ぢぞう)
 伏見市街と大亀谷を結ぶ上板橋道と六地蔵と墨染を結ぶ墨染道
 の交差点で道は狭いが交通量が多い
 大名の屋敷跡地地名
    黒田官兵衛の屋敷跡推定(八科峠)深草大亀谷敦賀町
    前田利家     深草加賀屋敷町
    上杉景勝     景勝町    
             石田三成     治部町
    伊達正宗     桃山正宗

  伏見桃山城
  











伏見桃山城に到着(12:15)昼食タイム


伏見桃山城  別名 桃山城, 指月城, 木幡山城, 
築城主 豊臣秀吉 文禄元年(1592)  廃城 元和9年(1623) 
慶長伏見地震 文禄5年7月(1596)秀吉は無事であったが 女﨟73名仲居500名死亡
地震の2日後から城の建設が始まり 建設資材はかなりの部分が再利用され翌年5月に
天守閣が完成された

関ヶ原の戦いの際には家康の家臣鳥井元忠が伏見城を守っていたが 西軍に攻められて
大半が焼失した
1602年家康によって再建されるが1623年に廃城になり開墾されて桃の木が植えられたので桃山の地名が残る 本丸跡など主郭部分はのちに明治天皇の陵墓になった

因みに 50年前に住んでいた桃山最上町の畑地の中には2か所に井戸があり金水 銀水と言われ美味しい水であった茶の湯に使っていたらしい(立札が野ざらしで荒れていた)

又家から坂道を300m上ると住職が尼さんのお寺があった
徳川家康は側室お亀の方を寵愛し 城内の山荘御殿に住まわせ生まれたのが
五郎太丸で後の尾張藩初代藩主 徳川義直である

この山荘は後に尼寺清涼院となり地名は大亀谷五郎太町である 

伏見桃山陵
明治天皇陵

砂利道の参道1km










   明治天皇は生前この地をお気にいられ ご遺言により(伏見木幡城本丸跡)に   
  土葬して祀られる(15歳即位 59歳崩御)
230段上ると御陵


昭建皇太后陵
(伏見桃山東陵)大正3年64歳崩御










乃木神社





梅1輪1輪ほどの温かさ




乃木希典・静子夫人を祭る 大正5年建立

日露戦争 難攻不落といわれた旅順要塞を3回にわたって
総攻撃して陥落し市民から「乃木さん」といわれ英雄になる

戦闘で息子2人の戦死よりも兵士6万人近い死傷者を出したことは痛恨の極みであった

明治天皇大葬の儀の日 明治45年9月13日に乃木は軍服 静子夫人は紋付で殉死
辞世の和歌 
     うつし世を 神さりましし大君の みあとしたいて 我はゆくなり 
  御香宮神社
表門(伏見城大手門)

参道

創 建 不詳 
祭 神 神功皇后





蟇股には中国二十四孝の彫刻

御香水











貞観4年(862)の記録伝承によると境内より良い香りの水が湧きだしその水を飲むと病が治ったので 時の清和天皇から「御香宮」の名を賜った
表門を見上げると立派な彫刻の蟇股(かえるまた)である
中国二十四孝を彫ったもので 楊香、敦巨,唐夫人、孟宗の物語の順にならんでいる

楊香(ようこう)
父と山に行った際に虎が躍り出て 2人を食べようとした・・・・楊香は父が食べられ
ないように「天の神よ どうか私だけを食べて 父を助けてください」と願ったところ
猛り狂っていた虎が尻尾を巻いて逃げて 父子共に命がたすかった

郭巨(かくきょ)
貧しい郭巨に子供が生まれたが貧しかった、母が孫に自分の食べ物を分けて食べさせて いるのを見て3才の我が子を地面に埋めようと涙を流しながら 掘っていると黄金の釜が 

出てそこに「孝行な郭巨に天からこれを与える他人は盗ってはいけない」と彫られている
郭巨と妻は黄金の釜をいただき家に帰って さらに母に孝行を尽くした

唐夫人(とうふじん)
姑の長孫夫人に歯がないので乳を与えたり毎朝姑の髪を梳いたり様々の事で仕えていた
長孫夫人は死が近づいたときに子供たちに「嫁の孝行を真似るならば 将来繁栄する
であろう」と褒めた

孟宗(もうそう)
病気の母が冬に筍が食べたいと言ったので竹林に行ったが冬にあるはずもない

涙ながらに天に祈りながら雪を掘っていると 雪が解け土の中から筍がでてきた
熱い汁ものを作って母に与えると 病も癒えて天寿を全うした


          改めて伏見城の大手門であった表門を見上げる
                                  おわり