いいとこどりで歩く東海道五十七次 興津宿から沼津宿
2016-10-13-14 34名
行程 一日目
新大阪(新幹線こだま)=京都(途中乗車)=静岡=興津宿=さった峠・・・
…望嶽亭・・・・・広重美術館=蒲原宿=沼津 (リバーサイドホテル)泊
二日目
沼津=吉原宿=原宿・・・・沼津城址=三島駅(新幹線こだま)=京都=新大阪
ツアー参加者確認 |
静岡駅 |
久し振りに「東海道ウオーク」に新幹線京都駅から参加する
このツアーは第10回目で全員慣れた出で立ちで 添乗員もスムースの行動で爽やかである
41次 興津宿 本陣二軒 脇本陣二軒 旅籠三四軒 宿内人別1668人 |
相撲取りの2人は柄袋をかぶせた刀を腰に差しているので大名抱えの関取と思われる
4人の駕籠かきが 並々ならぬ重さに顔をしかめて担いでいく
清見寺 |
古書籍の書棚がずらりと並ぶ |
清見寺 臨済宗妙心寺派 本尊 釈迦如来 創建 白雉年間(605年ー654年)
足利尊氏や今川義元の帰依を受けて繁栄した。
徳川家康が今川氏に人質としてあったとき 住職大原雪斎に師事し 勉学した
天皇の行幸や 朝鮮通信使の接待も行われた
駿河湾を望む風光明媚な高台にあり 雪舟 夏目漱石 高山樗牛 島崎藤村が訪れている
42次 由比宿 本陣一軒 脇本陣一軒 旅籠三二軒 宿内人別713人 |
見えるという感動的な地点である
由比本陣表門 |
公園内には「芝生広場」 「広重美術館」 「由比宿交流館」 「由比本陣 御幸亭」がある
もう一枚の由比宿浮世絵 |
広重の五七次浮世絵版画 |
歌川広重美術館
版画の制作もできる |
はっぴを着て江戸時代へ |
明治天皇がご小休された離れ座敷 |
由比宿交流館
由井正雪の生家(正雪紺屋) |
徳川家光の死の直後 幕府政策への批判と浪人救済を掲げ 丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義など浪人を集めて
幕府転覆を計画した事件(慶安の乱)
仲間の裏切りで密告され 捕りかたに囲まれて自刃した
4代将軍徳川家綱以降政治が武断政策から文治政策へ
転換するきっかけの一つともいわれている
天候が良ければ富士山が! |
薩埵峠244m |
鎌倉時代1185年に 由比の倉沢の浜で綱にかかり引き揚げられた「地蔵菩薩」を この崖の上に
祀ったことがその名前の由来とされている
(パンフレットからコピー) |
薩埵峠を行く道が開かれたのは 江戸時代の1655年で 朝鮮通信使を迎えるにあたり造られた
薩埵峠を抜ける道はこの「中道」と 江戸後期には一般的な東海道の本道となった「上道」と
海際の昔ながらの危険な「下道」と合わせて三本の道が由比宿と興津宿を結ぶルートであった
この中道が造られるまでは 波が打ち寄せては引くという危険な海際の道を行く「下道」しかなかった 打ち寄せる波の合間を縫って通り抜けるという 命がけの道であった
道行く親子でも 親は子供を構っておられず 子供も親のことなど構っていられない・・・・・・・・・・
いつしか「親知らず 子知らず」と言われるようになった
現在でも海沿いを走る東名高速の下り線では 高波により通行止めになることがある
望嶽亭藤屋 |
15代目のお上さんの熱弁 |
[望嶽亭」は薩埵峠の東口のふもとにあり「間(あい)の宿」として多くの文人墨客で賑わった
明治元年3月7日幕臣山岡鉄舟が官軍に追われた際 望嶽亭の蔵屋敷で漁師に変装し隠し階段
より脱出した その折当時の最新式フランス製十連発のピストルを残して行った
蔵屋敷の洒落た窓 |
鉄舟の十連発ピストル |
43次「蒲原宿」(夜の雪) 本陣一軒 脇本陣三軒 旅籠四二軒 宿内人2480人 |
深々と降り積もる雪に 山も街道もすっぽりと雪に覆われ静寂が世界を包み込む
傘を頭からかぶるようににして半開きにさした老人は 下駄を履いて杖をつき宿場に
向かっている。 菅笠に合羽や蓑をつけた男二人は阪を上っていく
歌川広重が天保3年4月(1832)幕府が朝廷への献上使節一行に加わって 京へ上った
折にこの地で書いたスケッチや印象をもとにして書いた詩情豊かに構成された最高傑作
と言われている
この絵は昭和35年に切手になり有名であるが 謎とされているのが静岡の蒲原では雪は
降らないのに何故雪の夜にしたのか・・・・・ 新潟県の蒲原は豪雪地帯であるらしい
蒲原宿 |
説明板 |
夕食はバイキングスタイル |
沼津リバーサイドホテル泊 |
2日目
44次 吉原宿 (本陣二軒 脇本陣三軒 旅籠六〇軒 宿内人別2832人 |
東海道で唯一左富士が見える場所である
松の間から富士がのぞく快感を表現している 馬に乗った三人の子供のうち二人が
松の間に見え隠れする富士を 首をのばすようにして覗き込む様子がリアルに描かれる
右の一人は居眠りをしているようで 愛嬌がある ちょっとしたしぐさによって三人の子供
の顔の表情がいきいきと想像できるところに広重の名調子がうかがえる
平家物語によると治承四年(1180)富士川西岸に平家軍が陣を構えたところである
源氏軍は平家の陣の後方に回ろうとしたとき 水鳥がいっせいに飛び立ち その音に驚いて
平家軍は浮き足立ち敗走した
東海道で唯一左側に富士山が見える地点
創建 寛政8年(1796年)
主神 大ノ御子神(あるいは火産霊命)
もとの社名は「悪王子神社」と称していたが
1906年(明治41年)「左富士神社」と改めた
昔は樹木が繁茂 天狗が棲んでいると信じられていた
富士の大きさを表わすために 山頂を画面枠から突き出させ 意表を突く構図をとっている
右手の山頂がでこぼこしている愛鷹山を描くことにより 富士の山頂や裾野の線がいっそう
強調される
登場人物は煙草を一服ふかしながら来し方を振り向く母と富士を仰ぎ見る娘
挟み箱を天秤棒に掛けて従う供の者の三名と 野原に降り立った つがいの鶴がいる
「駿河に過ぎたるもの二つあり 富士のお山に原の白隠」
白隠禅師(1685~17689)原宿の長沢家に生まれ 松蔭寺で出家し
京都妙心寺の首座ともなるが 出世を望まず 松蔭寺を拠点にして
各地を巡錫した
膨大な著作や書画をのこしており終生にわたり様々な方法で法を
説き時代に即した禅を広めた
白隠の丹田呼吸健康法
息を吐きながら下腹を膨らませる 息を吐ききった後 ただ自然に肺に
空気が入ってくるのに任せるだけ
黄昏時に真ん丸な月が昇り 旅人たちの足も宿場を目前にしてつい急ぎがちになる
先頭を行く旅人たちから少し離れて母娘と 大きな天狗面を背にした白装束の男が続く
この異様な天狗面が真ん丸に昇った月の真下に描かれているのが面白い
(白い行衣に天狗面を背負うのが 金毘羅参りの独特の習俗である)
三島暦は仮名文字で印刷された暦としては 日本最古
暦師の河合家は奈良時代に京から三島に移り鎌倉時代頃から
太陽歴が出来た明治5年まで作っていた
現在当主は53代目で暦についての解説をされる
新幹線「新大阪」行 15:58乗車
=京都(途中下車)18:44=新大阪19:00
お疲れさま
右の一人は居眠りをしているようで 愛嬌がある ちょっとしたしぐさによって三人の子供
の顔の表情がいきいきと想像できるところに広重の名調子がうかがえる
鯛屋旅館 創業天和2年(1682) 幕末には 清水次郎長 山岡鉄舟が常宿にしていた |
平家超え碑 |
平家超え解説 |
平家物語によると治承四年(1180)富士川西岸に平家軍が陣を構えたところである
源氏軍は平家の陣の後方に回ろうとしたとき 水鳥がいっせいに飛び立ち その音に驚いて
平家軍は浮き足立ち敗走した
左富士をカメラで必死に撮る |
左富士が見えた |
東海道で唯一左側に富士山が見える地点
左富士神社 |
創建 寛政8年(1796年)
主神 大ノ御子神(あるいは火産霊命)
もとの社名は「悪王子神社」と称していたが
1906年(明治41年)「左富士神社」と改めた
昔は樹木が繁茂 天狗が棲んでいると信じられていた
45次 原宿(朝の富士) 本陣一軒 脇本陣一軒 旅籠二五軒 宿内人別1939人」 |
富士の大きさを表わすために 山頂を画面枠から突き出させ 意表を突く構図をとっている
右手の山頂がでこぼこしている愛鷹山を描くことにより 富士の山頂や裾野の線がいっそう
強調される
登場人物は煙草を一服ふかしながら来し方を振り向く母と富士を仰ぎ見る娘
挟み箱を天秤棒に掛けて従う供の者の三名と 野原に降り立った つがいの鶴がいる
松蔭寺(白隠禅師) |
白隠禅師の産湯の井戸 |
「駿河に過ぎたるもの二つあり 富士のお山に原の白隠」
白隠禅師(1685~17689)原宿の長沢家に生まれ 松蔭寺で出家し
京都妙心寺の首座ともなるが 出世を望まず 松蔭寺を拠点にして
各地を巡錫した
膨大な著作や書画をのこしており終生にわたり様々な方法で法を
説き時代に即した禅を広めた
白隠の丹田呼吸健康法
息を吐きながら下腹を膨らませる 息を吐ききった後 ただ自然に肺に
空気が入ってくるのに任せるだけ
駿河湾は静かに波打つ |
千本松原を約3キロ歩く |
46次 沼津宿 本陣三軒 脇本陣一軒 旅籠五五軒 宿内人別5346人 |
黄昏時に真ん丸な月が昇り 旅人たちの足も宿場を目前にしてつい急ぎがちになる
先頭を行く旅人たちから少し離れて母娘と 大きな天狗面を背にした白装束の男が続く
この異様な天狗面が真ん丸に昇った月の真下に描かれているのが面白い
(白い行衣に天狗面を背負うのが 金毘羅参りの独特の習俗である)
三島暦師の館 |
三島暦は仮名文字で印刷された暦としては 日本最古
暦師の河合家は奈良時代に京から三島に移り鎌倉時代頃から
太陽歴が出来た明治5年まで作っていた
現在当主は53代目で暦についての解説をされる
JR三島駅 |
新幹線「新大阪」行 15:58乗車
=京都(途中下車)18:44=新大阪19:00
お疲れさま
2 件のコメント:
フーム、今回は情報満載。一泊二日でいいとこに参加されたんやね。格調高く、真面目な事無草日記はいつも説明も史実も正確に丁寧に掲載されています。なのに私は添付の「夕食のバイキング」に熱い視線がいってしまう。想像も膨らんでしまう。なんやねん私。-ごまん-
念願のさった峠に至った時は自分なりに感動しました
このツアーはバス移動が多くて東海道を歩いている気分がなくちょっと物足りない でもまあ地図をたどればなんとか進んでましたなあ
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