三条大橋~山科
2015-5-31 80名
行程 京都三条大橋(11:00集合)ー粟田神社ー蹴上ー日の岡峠ー山科追分
旅行社の 「ウオーク初心者でも安心して参加出来ます」
というキャッチコピーにつられて参加することにした
三条大橋の川原に総勢80人集まり 2班に分かれる
お弁当が配られ 早目のお昼ご飯を思い思いに川原で
ずらりと並んで食べる
食後 全員集まって講師 梶本晃司先生の
「東海道五十三次街道」を 面白おかしく気楽に拝聴する
スタート 12:20
三条通りをぞろぞろ歩き始める
白川橋の道標
京都現存最古の道標で 碑文は
「北」三条通白川橋
「東」是よりひだり ちおんゐん ぎおん きよ水みち
「南」 延宝六戌午三月吉日
京都為無案内旅人立之 施主 為二世安楽
粟田神社
社殿の前の広場で
各自に持たされていたイヤホンを耳に嵌めて
梶本先生の解説を聞くが 器具の調整が下手で聞きづらい
(まあ 見慣れ 聞きなれた地でもあるし ええかいな)
粟田神社は京の七口の一つで 東海道に通じる粟田口に
鎮座し旅立ちの 守護神として崇敬されている
平安初期 貞観18年(876)創建の古社
因みに京の七口とは京につながる街道の出入り口のことで
鞍馬口 大原口 荒神口 粟田口 伏見口 竹田口 東寺口 丹波口 長板口
琵琶湖疏水記念館
琵琶湖疏水
京都にとって琵琶湖の水を引くことは昔からの夢であった
琵琶湖疎水は着工から5年後の明治23年(1890)に完成した
疎水の急流
蹴上浄水場
明治45年(1912)に完成した急速濾過式の浄水場で疎水の水を
上水に清浄し一般家庭や工場に配水する京都市営の五浄水場
の一つ
蹴上の地名の由来
・ 義経が奥州に向かう途中この地で別れをおしんでいたとき 平家武者の
従者の馬が水溜りの泥水を蹴りあげ 運悪く義経の衣を汚してしまった
腹を立てた義経は 従者9名を斬り殺し 平家の武者 関原与市の耳と鼻を
削いで追い払った
・ 罪人を蹴り上げて九条山の刑場に連れていったことから蹴上という説もある
日の岡峠 車石 梶本晃司講師の面白おかしい解説を聞く
日の岡峠は京から江戸に向かう旅人にとっては 最初の難所だった(車石のモニュメントがある)
牛 馬車が通行するには難渋したようで 車石が敷かれ その上を荷車を曳き 通ったそうな
亀の水不動尊(10年前) 亀の水不動尊(現在)
江戸から2週間程かけてようやく京に上って来た旅人の最後の水飲み場であった。
木食正禅上人が元文三年(1738)旅人の休養所として 庵を結び旅人や牛馬に水を提供した
10年前に訪れた時は石造りの亀の口から水がちょろちょろとながれていたのに 祠辺りは雑草が
生い茂り面影が全くない 水が枯れてしまったのだろうか 何も説明もなく無視して通り過ごす
五条分かれの分岐点の道標
宝永4年(1707)建立
{北} 右ハ三条通
{東} ひがし 六条大佛 にし 左ハ五条橋 道 いまぐまきよ水
{南} 丁 宝永四年十一月吉日 亥、
{西} 願主 沢村道範
山科地蔵徳林庵 日通公社のマークの元
山科入り口にある山科地蔵徳林庵は後白河天皇の勅命により保元2年(1175)
京洛出入口の主要街道六ヶ所に安置された地蔵の一つで
地蔵尊は 平安時代 小野篁(たかむら)の作と伝えられている
旧京津線 山科駅跡を経て追分に到着 本日のコース終了 (約7km)
和菓子の「井筒八ッ橋」店前で解散 (17:30)
店内は広くてお茶サービスと種々のお菓子の試食の呼び声で賑やか ゆっくり休憩し
お土産を買って一段落した頃 バス乗車組と東西線「追分駅」から乗車組とに分かれ
帰路に着く お疲れさまでした。
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