2020年8月31日月曜日

文学歴史ウオーク(大阪)


高麗橋から京街道・熊野古道と奈良街道を経て二軒茶屋まで

                              2020-8-2  40名

  集合場所  地下鉄堺筋線北浜駅南改札口  午前9:00

  コース  地下鉄堺筋線北浜駅―高麗橋・里程標ー坐摩神社行宮(窪津王子跡)

      -三橋楼跡ー太閤下水と背割りー坂口王子跡―榎大神ー東雲稲荷社

      -玉造稲荷神社ー白光大神ー黒門場所跡ー二軒茶屋跡ーJR玉造駅(約7㎞)


  講師 芝川明義先生(1952生)

 シルクロードの旅を続け将来はローマを目指す

 著書 「ドライブ関西地学の旅シリーズ」

    「さあ化石を探しに行こう!」

   「カラー版徹底図解地球のしくみ」   




高麗橋里程標   江戸時代の里程計算の起点は高麗橋の東詰にあった


         ここが京街道・中国街道・紀州街道など諸国への道のり、車馬賃の

         基点となった

                         現在の道路元標として梅田新道交差点西北角に 

       移されている


坐摩神社行宮いかすりじんじゃあんぐう)(窪津王子跡)大阪市中央区石町

淀川河口には渡辺津・窪津・大江などあり京からの船が着く

熊野古道の基点でもあった 熊野三山への参詣道沿いに建っていた

この地は坐摩神社の旧鎮座地であって天正11年(1583)

豊臣秀吉大阪城築城に際し大阪中央区久太郎町に遷座さる




「熊野九十九王子」のうち最初の「窪津王子」は

 この坐摩神社行宮の場所にあったとされる




坐摩神社行宮由緒

神功皇后が新羅よりご帰還の折この地に坐摩神を奉斎

された 又 石上にご休息されたと伝えている

今も境内にご鎮座石が残り 故にこの地を石町と称す



太閤下水背割   

   大阪中央区豊人町 地下鉄「谷町4丁目」

 豊臣秀吉が大阪城築城(天正11年1583年)際 町づくりにあたっては大阪が 淀川・大和川のデルタ地帯にできた低湿な土地で あったので 道路整備と同時に町家からでる下水を排水するため下水溝が建設された 大阪城に向かう東西道を軸に碁盤の目に区切られその道路に面した建物の背中どうしのところ(裏口)に下水溝が掘られた

「背割下水」「太閤下水」と呼ばれている 


現在背割下水は地下構になっている



南大江公園  大阪市中央区谷町四丁目                

 面積は5000㎡ほどでほぼ子供向けの遊具広場である 因みに         
  「直木三十五」が生まれて少年期を過ごしたのがこの辺り            

狸坂大明神
狸を火除けの神様として祀る風習は日本各地にあるようです この地は朝日神明社跡で
また坂口王子跡伝承地でもある                           

榎大神     大阪市中央区谷町六丁目               
            
   榎大明神は榎とされている木を神体とした祠で 榎は鑑定では槐(えんじゅ)  
   とされ樹齢およそ670年といわれている(祠の後)この辺りは紀州熊野参りと  
   伊勢参りのみちすじだった この樹は何より地元の人達は土地神とし     
「白蛇大明神」の祠を建てて代々この樹をお守りしてきた        
  
  東雲稲荷神社  大阪市中央区上町  創建 平成元年(1989)6月      



当地は元々玉造を代表する町人 松山甚四郎、その手代源助が全国に安全な旅を
提供するため組織された「浪花講」を設立した場所            
(現在の伊勢参りは玉造稲荷神社から出発し170㎞7泊8日で伊勢街道を歩く)

当社そのものの縁起としては不明だが平成元年6月に玉造神社より文社された 


玉造稲荷神社   大阪市中央区玉造                
       主祭神 宇迦之御魂大神   創建 伝垂仁天皇

聖徳太子が仏教受容問題で物部守屋公と争われた際 この玉造岡に陣を敷き
「我に勝ちを与えるならこの栗の白木の箸に枝葉を生じさせたまえ」と祈願
されたところ の地に枝葉が生じ この戦いも無事に終わった     
その後天正4年の兵乱により悉く焼失したが 豊臣秀頼公により再建された

豊臣秀頼公
秀頼公と淀君を結ぶ胎盤が鎮まる
玉造黒門越瓜(たまつくりくろもんしろうり)   

瓜を実験栽培中
(天保七年)の記載によると この辺りで作られていた瓜は玉造黒門越瓜と言われ
 太くて長くて濃緑いろ、八~九条の縦縞があり 糠漬けが美味しかったこと 
   から名産となった                             
                         
白光大神(しらみつおおかみ)   大阪市中央区             

白光とは白蛇のことで玉造稲荷から飛んで来た榎の種がこの場所で育ち
白蛇が住み着いたといわれている                 

黒門場所跡

かって大阪城の玉造門が黒塗りであったため 黒門とよばれていた
黒門は大阪市中央区玉造1丁目にあり 豊臣期に惣構門として築かれた
(交通量の激しい道路脇の草ぼうぼうの中に忘れ去られていて悲しい) 


二軒茶屋跡・石橋 旧蹟   大阪市東成区(玉造駅東)         
                         

江戸時代から奈良街道が人の往来も盛んとなり この街道の起点であった
玉造に「つるや」「ますや」という二軒の茶屋があり 旅人の休息の場と
して繁盛した                           
この二軒のそばを流れていた猫間川に宝永8年(1711)幕府の命によって
石橋が架けられ黒門橋と名づけられた                
当時としては珍しく石で造られたものだったので通称石橋と呼ばれていた
  ここも又交通量激しい道路際に石碑が淋しく立っていて偲ぶよしもない  


 大阪環状線玉造駅で解散 12:30

 子供の頃、天王寺区空堀町に叔父が「ガラス業」を営んでいた、母に連れられ
  「玉造」へよく行った事を思い出す、話上手な叔母の手振りが面白く楽しかった
         
 叔父は正義感が強く怒りっぽい人であった 信仰心篤い人で奈良の大神神社に
   月参りし又京都東山の東福寺が台風で大きく破損した時に大金を奉納した人だった
        
                                 おわり

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