2019年12月9日月曜日

文学歴史ウオーク(奈良)


天誅組のゆかりと伊勢街道宿場町
                            2019-12-1  42名
  行程
   JR森ノ宮駅(8:00)ー道の駅かつらぎー民族資料館長屋門ー桜井寺ー
   リバーサイドホテルー栄山寺ー賀名生の里資料館ー道の駅かつらぎー大阪駅

道の駅かつらぎ











     トイレ休憩に立ち寄った「道の駅かつらぎ」は地産の新鮮な野菜 果物が盛り沢山に
  並び誰もがついつい買いこんでしまった
                                            民族資料館             奈良県五條市新町          

五條代官所長屋門
民族資料館










             

  天誅組
  幕末に公卿の中山忠光を主将に志士達で構成された尊王攘夷派の武装集団が
  大和国で挙兵する(8月14日)が幕府軍の追討(8月18日)を受けて壊滅した
  文久3年(1863)結成時の同志は38人で(土佐脱藩浪士18人久留米藩浪士8人)
  槍隊 鉄砲隊が編成され総勢1000人であった
    8月14日 孝明天皇の神武天皇陵参拝の行幸の先峰となり京を出発
    8月17日 奈良五條代官所を襲撃
    8月18日 政変が起こり行幸は中止 挙兵の大義名分を失った天誅組は反乱軍
         として追討される身になった
    9月24日 その後吉野各地で転戦し抵抗を続けたが東吉野村で殆どが全滅した
  
   志士達の霊は京都霊山護国神社に祀られている

天誅組の顚末を熱く語る

天誅組出発の絵







天誅組記念碑

明治維新発祥地記念碑













  幕末の政局に翻弄された天誅組の行動は失敗におわったが その後の倒幕運動につらなり
  明治維新のさきがけになったとされている


   新町通り          奈良県五條市新町

  吉野川下流沿いに開けた大和盆地の西南にあたる五條市は古くから大阪と紀伊を
   結ぶ交通の要衝であった

大和五条新町通り
松倉重政頌碑












  慶長13年(1608)松倉豊後守重政は関ヶ原合戦の功績によって1万石余りの大名
  として二見城に入りました そしてすでに町場として栄えていた五条村とを結ぶ 
  地域に吉野川と並行する道路に沿った町割りを施行して新町をつくり南和地域の
  中心として発展する基礎を築いた

栗山家住宅

 日本最古の民家で慶長12年(1607)の棟札を持ち
 当時の有力商人の家
 入母屋造り 本瓦葺の反りの強い屋根は特に目を引く


道標







               東に向う道を伊勢街道 
               西に向う道を紀州街道
                                
   
二畳一間の勉強部屋
木村篤太郎生家












木村篤太郎(1886~1982)は吉田茂内閣では司法大臣 法務大臣 保安庁長官を歴任した
戦後GHQによって禁止された剣道の復興に力をつくし 初代会長も務めた

幻の五神鉄道場

幻の五神鉄道場

  五條から紀伊半島を縦貫し和歌山県新宮までを結ぶ
  計画であった(大正12年)
  昭和56年(1981)国鉄再建問題で事業が凍結された

吉野川





吉野川の上流に目をこらしていると高見山」が発見され歓声があがりお互いが指差して確認された      (霜柱のたった山道を歩いていた若い時の情景を懐かしく
  思い出す)


  桜井寺            奈良県五條市須恵



  山号 閏生山
  宗旨 浄土宗
  本尊 阿弥陀如来
  創建 桜井康成 天歴年間(947~957)

  文久3年(1863)8月に五條代官所を襲撃した天誅組は
  この寺に本陣を置き五條仮政府と称した



代官鈴木源内ら5人の首を洗った手水鉢
槍尻の傷跡



   








   リバーサイドホテル (昼食タイム)   奈良県五條市新町

刺身、紙鍋の豚汁、茶碗蒸し


                                                                                                      
                     






栄山寺             奈良県五條市小島町 

    ここはのんびりしている おおらかで国宝が二つもあるお寺にもかかわらず
    開放的で格式張ってないところが奈良らしい
本堂。石灯篭(重要文化財)

   山号  学晶山
   宗旨  新義真言宗
   宗派  真言宗豊山派
   本尊  薬師如来
   創建  伝 養老3年(719)
   開基  伝 藤原武智麻呂





  本堂  藤原鎌足の孫藤原武智麻呂が菩提寺として創建した
      南北朝時代に南朝の後村上天皇、長慶、後亀山天皇の行在所が置かれていた
  石灯篭 弘安7年(1284)の銘があり栄山寺型と呼ばれている

梵鐘(国宝)
八角堂(国宝)
 












  八角堂  藤原武智麻呂の菩提を弔うために子の仲麻呂によって建立された
       夢殿に似たこの堂は内壁などに極彩色の仏画が残り天平時代を代表する
  梵鐘   「平安三絶」の鐘に数えられている梵鐘で 銘文の撰者が菅原道真で
       筆者が小野道風と伝えられている 
       京都神護寺 宇治平等院とともに日本三名鍾一つと言われている

  賀名生の里            旧吉野郡西吉野村

   
南朝の 歴史や資料を展示
吉野山地からのびる支流が次第に低くなる
丹生川沿いの谷筋に位置する


後醍醐天皇から賜った「日の丸



 

堀家の行宮跡
     


冠木門に掲げられていた

 
                   







西吉野村の郷士堀太郎信益は後醍醐天皇を厚くもてなした
その後も後村上天皇、長慶、後亀山天皇もこの地に
来た時は堀家が皇居になったらしい
 


賀名生の里皇居の説明
歴史資料館長屋
         
          









   
     南北朝時代に思いを馳せるのもいいかな     
                             終わり
                             

2019年12月8日日曜日

宿場町枚方を考える会(河内長野)






狭山池博物館・金剛寺訪問
                         2019-11ー20   36名
 行程
  ラポール枚方(8:40)ー狭山池博物館ーグランドホテル二葉(昼食)-天野山金剛地
  -花の文化園ー道の駅(くろまろの郷)-ラポール枚方(17:30)
狭山池博物館

狭山池












  狭山池は飛鳥時代(7世紀前半)につくられた。
  1400年の歴史を刻む日本最古のダム式ため池で現在も尚280万㎥の貯水量を誇る
      流水する河川ーーー西徐川(にしよけがわ)三津屋川
       流出する河川ーーー西除川、東除川、ともに大和川に流れ込む


堤の断面
1400年間の歴史が積み重なる
高さ15,4m 幅62mの堤の断面を切り取って展示

東樋






断面年代別










鉄くぎ
スコップ




 









 河内国西部の丘陵地帯は水量に乏しく灌漑に苦労してしていた地域で、現在も狭山池
 周辺には大小のため池が数多く点在する
     「日本書紀」崇神天皇・・・河内の狭山の植田水少なし
     「古事記」 垂仁天皇・・・血沼池又狭山池を作る
     「枕草子」 狭山の池みくりといふ歌のをかしきが覚ゆるならむ
      慶長5年(1600)池の東畔に北条氏が治める狭山藩の陣屋が置かれる

 調査研究
 東樋に使用された木材の伐採が616年(推古天皇24年)と判定された年輪年代測定結果
 がある
 堤体の盛り土が幾層にも摘まれ、その一部に植物層を含む層があることが判明し中国
 から伝わった敷葉工法(葉のついた枝を土留に使う)が用いられていることがわかる

重源座像と碑文
改修の主な歴史
 731年(天平3年)行基による改修
 1202年(建仁元年)重源による改修「重源狭山池改修碑」
 1608年(慶長13年)豊臣秀頼の命で片桐且元が大改修
 1988年(昭和63年)~平成の大改修
片桐且元





昭和の取水塔


 グランドホテル二葉     大阪府富田林市   滝谷不動尊はとなりにある

グランドホテル二葉
昼食タイム椅子席












天野山金剛寺         河内長野市天野町

楼門(重要文化財)
女性ボランティアガイド

 宗派 真言宗御室派
 本尊 大日如来
 創建 (伝)天平年間
 (729~748)
 開基 (伝)行基
 聖武天皇(勅願)


多宝塔
金堂








国宝






  中央 大日如来像(木造)平安時代
  左  三世明王像(木造)鎌倉時代
  右  不動明王像(木造)鎌倉時代

 不動明王像は仏師快慶の高弟行快の作












  奈良時代(天平年間)に聖武天皇の命により 高僧行基によって開かれた
  平安時代に弘法大師が修行した聖地と言われている
  その後400年のあいだ荒廃してしまう。平安時代の終わりに高野山より阿観上人が
  この地に住まわれ 後白河上皇とその妹の八條女院の篤い帰依と擁護を受けた
  八条女院の侍女が阿観上人の弟子となり 二代続けて院主となったことから
  「女人高野」と呼ばれるようになった

観月亭
天野殿(食堂)
後村上天皇が行在中の5年間この食堂を 
正殿として政庁に使用された






                





 
  南北朝時代
  金剛寺は南朝方の拠点となり正平9年(1354)から6年にわたり南朝の
  後村上天皇が行宮として用いた
  一時 北朝の三上皇(光厳・光明・崇光)が幽閉されていた
 

北朝御座所
北朝御座所











   南北朝が終わると 寺領から算出される米や木材、炭特に「天野酒」が商品として
  寺の経済を潤し 支院が90以上を数える程になる
  織田信長や豊臣秀吉の擁護をうけ 幕末まで307石の寺領を所有していた
  平成21年より平成大修理が始まり 平成30年3月に落慶法要が行われた



枯山水庭園 

   南帝より伊勢大神宮に奉幣使を立らる。御門三種の神器を御拝あって御製
   として次の二つの和歌を掲げる
   後村上帝御製
      四の海の波もおさまるしるしにて三の宝を身にぞ伝ゆる
      九重(ここのえ)の今もますみの鏡こそなお世をてらす光なりけり
                                    おわり