2016-11-2 29名
行程
JR京田辺駅(9:30)ー棚倉孫神社ー甘南備神社ー一休寺ー甘南備山ー扇池
―やすらぎの丘霊園ー尊延寺バス停
棚倉孫(たなくらひこ)神社前広場で ボランティァガイド氏の案内説明を聞く
棚倉孫神社 |
棚倉孫(たなくらひこ)神社
創建 不明
祭神 高倉下命(たかくらじのみこと)
別名 天香古山命(あめのかごやまのみこと)
別名 手栗彦彦命(たぐりひこのみこと)
古事記や日本書紀によると天孫降臨に父命(饒速日命)(にぎはやひのみこと)と共に降り
紀州熊野に住み神武天皇の東征の時 布都御魂(ふつのみたま)の神剣を奉り大功を
立てられたとある
ずいき神輿 |
子供ずいき神輿 |
瑞饋(ずいき)神輿は2年に1度奇数年の10月体育の日に行われる
由来
淀城主が参勤交代の途中で大井川を渡った時 棚倉孫神社の神からのお告げのおかげ
で難をのがれたことを感謝し 神社に石の大鳥居を寄進した
これを喜んだ村人達が瑞饋神輿をつくり祀ったことに始まる
野菜を飾った神輿
(資料より)
甘南備寺 |
穴の開いた石 |
「かんなび」は「神南備」とも「神奈備」ともいわれ 神が宿る山として古代から信仰されていた
奈良時代の僧 行基による創建で 平安時代末期の今昔物語のなかにも登場している
本尊 薬師如来は耳の病に霊験あらかたで地元では暑く信仰を集めていて 病が治ると
穴の開いた石を奉納する慣わしがある
酬恩庵一休寺 臨在宗大徳寺派 本尊 釈迦如来 京田辺市薪里ノ内
一休寺参道 |
本道(仏殿) |
一休は室町時代康正2年(1456)63歳~文明13年(1481)88歳で亡くなるまで25年間在寺
方丈前庭園で住職の説明 |
方丈の襖絵 狩野探幽 |
面白い表情の五百羅漢 |
方丈庭園 松花堂昭乗 佐川田喜六 石川丈山作 |
一休禅師墓所 |
「慈楊塔」と呼ばれ宮内庁が後小松天皇ご落胤説に基づいて
陵墓として管理している
門内に入れないので ご紋の透き間から覗くと枯山水の
庭園の中に小堂があった
一休さんは臨終の際に「死にとうない」と述べたと伝わって
いるそうだが その心は?????
一休寺納豆 |
一休寺納豆は塩辛いけれど味わい深く香ばしい
一休が中国からの製法をもとに伝授した
夏の暑い日に仕込み一年間天日干しにして完成させる
今も代々伝えられ住職の手によって作られている
いい天気でよろしいなあ のんびりとお喋りしながら
甘南備山に向かって歩く
京都盆地 比叡山 愛宕山 確認する |
甘南備山展望台 |
甘南備山は京都 大阪の府境に接し生駒山脈の支峰となっていて雄山と雌山の2つの
山頂がある 雄山221.0m(甘南備神社) 雌山201.6m(三角点)
平安京の建設の際に その中心線となる朱雀大路が舟岡山と甘南備山を結ぶ線上に
決められたと伝えられている
経度では船岡山から甘南備山はほぼ真南に位置する
三角点の約50m東下に白石があり 太陽の光の反射によって 都の建設当時の目印に
なったと考えられている
甘南備神社 |
京都府京田辺市薪甘南備
甘南備山の頂上に鎮座している「かんなび」とは古来
神の御座所のことで 社殿を持たなかった時代には
山嶽や森林などを神の御座所とし「かんなび」「もろみ」と
呼んでいた
明治10年(1877)に延喜式内甘南備神社となった
雄山山頂 三角点は無い |
静かな山道はしっとりして神域を感ず |
尊延寺 |
天平3年(732)創建当時は荘厳な伽藍が立ち並んでいた
鎌倉時代の承久の乱で焼失した
枚方市指定文化財 木造不動明王立像 木造四大明王像 木造地蔵菩薩像
解散後 バス枚方市駅行き 14:43 乗車帰路に着く 歩数12,500歩 お疲れさま!!
2 件のコメント:
年齢を重ねると体験が積み重なります。心に強烈な思い出として刻まれる事や、日々の中に埋もれていく事があります。私の中の甘南備山は後者ではあるけれど、20年近く前に仲間達と共に甘南備山から信貴山に向かったあの光景が褪せることなく浮かんできます。あの頃の中年組も、皆、じいさん、ばあさんになったやろうなぁ。-感傷的になる晩秋の日。ゴマン―
懐かしい いい思い出があるのは幸せですね ひと時でも青春に戻りその時の 気分が戻ってきて心がハッピーになりますね がんばれ!
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