司馬遼太郎記念館 東大阪市小阪3丁目 近鉄 八戸ノ里駅から10分
2016ー2-12(金)
入館者がぞくぞくと入っていく
1961年春 司馬遼太郎自筆の歌碑
初期作品を書いていた文机
1956年
「ペルシャの幻術師」
講談倶楽部賞
1959年
「梟の城」 直木賞
1960年
「花咲ける上方武士道]
「風の武士」 「戦雲の夢」
書斎 亡くなった当時のまま 「街道が行く」執筆中 |
高さ11m 蔵書約2万冊 (邸の廊下には6万冊)
聞くところによると
「竜馬が行く」の資料は 1等資料 新聞記事 ゴシップ
郷土史等全て3000冊 金額1000万円
パソコンの無かった時代にどのような時間の使い方でどのように 執筆されたのか 凡人が想像することではないが
寄付者銘板
(自分の名前を探している人がいた)
2015年8月19日 大阪府の登録博物館が建築家 安藤忠雄の設計で設立した
総工費7億5400万円そのうち5億5千万円が8400名の寄付
上村洋行館長がホールで講演150席は超満席の為 2時と3時の2度の講演となる
氏は義弟で小学生の頃 高校時代の 思い出等・・・・・・・・・・・・・・・
会館を出るとき1人づつ菜の花を手渡されて、 菜の花ロードをゆっくり歩いて帰る
司馬遼太郎が新聞記者時代に雑誌「信仰」に本名で書いたエッセーのなかから
” 「門前の小僧」 五年 ” 福田定一
”君、「宗教」 を担当しないか”
最初、デスクからこう命ぜられたときは、正直、どきりとした。まだ、紅顔、血気の年である、
血なまぐさい事件でも追っていたころだ、むろん、宗教的素養などはこれっぽちもない。
京都にやって来て間もないころだから、地図をみてやっと東・西本願寺を分別し
、
あいさつにうかがった。 当時西本願寺は佐々木才正、石原芳正、鹿苑宇宙、東本願寺に
竹田淳照の諸氏が渉外関係におられて、闇から牛を突出したような物知らずの若僧記者を
懇切に教導してくださったことは一生忘れられない思い出である。
教団をしるにはまずその歴史を知ればよかろうと思い、本願寺関係の史料は手当り次第に
漁った
最も感銘したのは中世末期から近世初頭にかけての本願寺勃興期の歴史だった・・・・・・・
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
エピソード
・ 速読家で、ある友人と家で話してた時 その友人がコーヒーを一杯飲み終るうち、
会話をしながらであるにもかかわらず、文庫本ぐらいの大きさの本を一冊読み
終わっていた
・ 資料集めへの執念はすさまじく、一度に何千万円という巨費を投じて買い集めた
古本屋へ他の作家が行っても何もないことが多々あったそうな
・ 私生活の面では 中村玉緒のフアンで そのお辞儀の美しさに見とれたという
1 件のコメント:
私は、かなり偏りがある読書好きで、およそ高名な作家ほどその読書量は少ないが寄付者銘板に名を連ねたかった気もするわね。
コメントを投稿