裏磐梯高原
2015-8-6~7 4名
行程 一日目
東京11::26(東北新幹線やまびこ135号)=郡山12:18着=磐越自動車道
=五色沼=「裏磐梯高原ホテル」泊
二日目
ホテル出発9:30=会津若松鶴ヶ城=野口英世記念館
=郡山14:30(東北新幹線やまびこ)=大宮=新宿
五色沼
磐梯山(1818m)は明治21年に大噴火を越し土石流で川が堰き止められて 大小約300の
湖沼群を形成した
五色沼は大小40あまりの湖沼群を総称して五色沼という
「五色沼自然探勝路」コースを歩き始めたが 靴が岩や木の根っこを歩ける状態でないこと
に気がついて戻ることにする
裏磐梯ビジターセンター
裏磐梯の自然をパネルや標本で分かり易く紹介する展示や
ビデオで学ぶ等々
「雪室」が別棟にあり 押しボタンを押して小さい窓から
必死になって覗いていると 孫が後ろから
「お婆ちゃんボタンで電気を消してるよ」って アッハッハァー
雪は部屋いっぱいに こんもりと積もっていた
裏磐梯高原ホテル
3年前にリニューアルしたとのことで すっきり ゆったりして気持ちがいい
ホテル内に図書室があり コーヒーを自由に飲みながら「山」の本を数冊取ってページをくる
夕食はフランス料理のフルコースで美味で上品で分量も程よく幸せな気分いっぱいだよ
広大な庭園内の「弥六沼」の向こうに裏磐梯の山容が悠然と聳えている
テニスコートでポーン ポーンと打ち合ってる組もあれば
樹の間に吊り下げられたハンモックにゆられて ニヤニヤしてる組もいる
会津若松 鶴ヶ城
築城 1384年
主な藩主 蘆名、伊達、蒲生、上杉、
加藤、保科、会津若松、
難攻不落の名城といわれ 戊申戦争の際 には一ヶ月以上の籠城戦が続いた
大河ドラマの「八重」は弟の仇を討つため
男装して籠城戦に参加した
天守閣までの階段は 人、人の熱気と
観光客を誘導の大放送にむんむんし
汗だくになる
やっと天守閣にたどり着いて吹き込む風に 吹かれながら四方八方の景色に夢中になった 飯盛山もやっと確認できた。
野口英世記念館
生家 明治9年(1876)11月9日に生まれて上京するまで19年間過ごした
建てられて200年近くたった今でも 当時の姿が保たれている
床柱に 「志を得ざれば再び此の地を踏まず」 決意を力強く刻みつけられている
母 シカの手紙
おまイの。しせ(出世)にわ。みなたまけ(驚き)
ました。わたくしもよろこんでをりまする。
なかた(中田)のかんのんさまに。さまにねん
(毎年) よこもり(夜籠り)を。いたしました。
べん京なぼでも(勉強いくらしても)。きりかない。
いぼし。ほわ(烏帽子=地名)こまりおりますか。
おまいか。きたならば。もしわけ(申し訳)か
てきましよ。
はるになるト。みなほかいド(北海道)に。
いてしまいます。わたしも。こころぼそくありまする。
ドか(どうか)はやく。きてくだされ。
かねを。もろた。こトたれにこきかせません。それをきかせるトみなのれて(飲まれて)しまいます。
はやくきてくたされ。はやくきてくたされはやくきてくたされ。はやくきてくたされ。
いしよ(一生)のたのみて。ありまする。
にし(西)さむいてわ。おかみ(拝み)。ひかしさむいてわおかみ。しておりまする。
きた(北)さむいてわおかみおりまする。 みなみ(南)たむいてわおかんておりまする。
ついたち(一日)にわしおたち(塩絶ち)をしておりまする。
ゐ少さま(榮昌様=僧侶)に。ついたちにわおかんてもろてまする。
なにおわすれても。これわすれません。
さしん(写真)おみるト。いただいておりまする。はやくきてくたされ。いつくるトおせて(教えて)
くたされ
これのへんちまちて(返事を待って)をりまする。ねてもねむれません
(英世は この文の大正4年に日本に帰国した)。
手紙の字はたどたどしくて一字一字に思いが込み切ない(桐箱入り巻手紙が別売されている)
明治10年(1歳)の時
囲炉裏に落ちて左手を大火傷する
明治24年左手を治す手術費用を集める募金が行われ会津若松でアメリカ帰りの医師 渡辺鼎の
下で左手の手術を受ける
この手術の成功した事がきっかけで医師を目指す
東北新幹線 郡山駅(14:30)やまびこ号に乗車し帰路につく
新宿駅に着きコインロッカーに荷物を預け 雑踏の中を歩いてビルの中の映画館で
「ジュラシックパ-ク」を 3Dメガネをかけて観る(初めての体験で面白かった)
午後8時頃 家路に着き 心づくしの家庭料理をいただき嬉しさいっぱいで就寝する
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