2015-7-18 40名
行程 近鉄竹田駅(9:50)=瀬田唐橋(スタート)-建部神社ー 一里山ー弁天池 ー野路の玉川跡ー野路ー立木神社ー 草津宿本陣ー近鉄竹田駅18:30
今回は瀬田の唐橋からのスタートになる
俵藤太の百足退治(たわらのとうたのむかでたいじ)
俵藤太こと藤原秀郷は 平将門の乱の討伐で知られる 彼が瀬田唐橋に現れた大蛇にたのまれ
三上山に住む百足を成敗したという伝説
大蛇は瀬田川に住む竜王の化身とされ 橋の東詰には この秀郷と龍王をまつる橋守神社がある
建部神社
長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社 祭神は日本武尊
源頼朝が平家に捕えられて伊豆に流される途中 建部大社に立ち寄って源氏再興の祈願をし
見事にその願いが叶って以来 武運 来運の神として信仰を集めた
おべんとう
建部神社の境内で昼食タイム
前回と同じく「おしながき」付き
京風のやさしい美味しい仕込み
「うばが餅」一個はいっていた
一里塚跡
平安時代末期に奥州藤原氏が白河の関から陸奥湾
までの道に里程標を立てたのが最初と言われている
江戸幕府(1604年)は日本橋を起点として全国の街道
に一里塚を設置を指令し、10年ほどで完了した
街道の両側に対で 榎 松 杉などが植えられ旅人が
休息を取れるように配慮されていた
弁天池
池の中にある小島には弁財天が祀られて
おり 毎年一月には藁で作った
蛇を体に巻き付け弁天社に参る神事が
行われる
江戸時代の大盗賊日本左衛門が逃げ
隠れしていたとの伝説が残っている
野路の玉川跡
日本六玉川の一つに数えられ
東海道を行き来する旅人の喉をうるおしました
泉は近くを流れる川の伏流水が湧き出ていた
鎌倉時代には 萩の名所として知られ「萩の玉川」の
別名がある
「あすもこむ 野路の玉川萩こえて 色なる波に
月やどりけん」 源俊頼
平 清宗の胴塚
草津野路の民家の庭に 平清宗の胴塚と保存供養されている
「 平安後期の公卿 平宗盛の長男 母は平時宗の娘
後白河上皇の寵愛をうけ 三才で元服して寿永二年には
正三位侍従右衛門督であった
源平の合戦により 一門と都落ち 文治元年壇ノ浦の戦いで
父宗盛と共に生虜となる
「吾妻鏡」に「至野路 以堀弥太郎影光 梟前右金吾清宗」とあり
当家では代々胴塚として保存供養しているものである
遠藤権兵衛家 当主遠藤 勉 」 (現地案内板より)
時に清宗は17才で父宗盛(39才)が潔く斬首されたと知り 西方浄土に向かい静かに手を合わせ 堀弥太郎景光の一刀にて首を落とされ、 京都六条河原にてさらされる
「右やはせ道 これより廿五丁」
矢橋道はこの角を右折し 狭い道を歩いていく
「瀬田へ回れば三里の回り ござれ矢橋の船に乗ろ」 と歌われたように
大津へは 瀬田橋を経由する陸路よりも 矢橋港からの渡し船のほうが
距離が短く早かったようで 急いだ旅人は矢橋の渡しを利用した
(現草津市内には 志那・山田・矢橋の三港があった)
立木神社
創 建 神護景雲元年(767年)
御祭神 武甕槌命(たけみかづちのみこと)
武甕槌命が常陸の国の鹿島神宮を白鹿に乗り旅に出られ
諸国を経てこの地に到着され 手に持たれていた柿の鞭を
を社殿近くに刺した 不思議にも柿の木は生えて枝葉が茂り
出したとのこと 里人は御神徳を畏みこの木を崇め神殿を建て
社名を立木神社と称した
草津宿本陣
・ 田中七左衛門本陣
総坪数 1305坪 建坪468坪
かつては田中九蔵本陣もあった
上段の間
・本陣で一番格式の高い部屋
唯一の格天井がはまっている
湯殿
・ お湯は屋外に湯沸屋形で
沸かされて運びいれられる
外敵から身を守るため 部屋は広く湯船は中央に
設置されている
江戸城築城の祖として 文武両道に優れた 太田道灌を祖先に
持つ 太田家が酒つくりを始めたのは 廃藩後の事で
当時所領としていた100余町歩の田畑から収められる近江米を
有効活用のため酒造を始め 以後酒つくりを生業として発展
旧東海道 草津宿に趣のある佇まいの道灌蔵は見学 試飲が出来
るが 時間の都合で試飲だけさせてもらい お土産に1本購入する
追分道標
東海道と中山道との分岐点にあり「右東海道いせみち」 「左中仙道 美のぢ」と刻まれている
本日の東海道ウオークはここで終るが
別コースに 「姥が餅」のお店に立ち寄り多くの人が たくさんのお土産を買って嬉しい
戦国時代 近江源氏であった佐々木義賢より曾孫を
託された乳母が 養育費の捻出のために東海道と
中仙道の分岐点である草津の地で餅を売ったところ周囲の
人たちが その乳母の誠実さに感じ入って 「姥が餅」と もてはやしたと言う
ちなみに この独特の形は乳母が幼児に与えた乳房を 表現している