2019年9月2日月曜日

文学歴史ウオーク(伏見)




日野家ゆかりの伏見を歩く
                              2019-9-1  46名
 コース
   京都市営地下鉄東西線醍醐駅(10:00)→ 醍醐市民交流センター(講演・昼食)→
   善願寺→ 言寺→平重衡の墓→恵福寺→萱尾神社→日野御廟所→日野誕生院→
   法界寺(解散15:00  約4㌔)

  醍醐市民交流センター
応仁の乱の関係の小説紹介
菊池崇憲先生(中央)










「日野富子」は日本歴史三大悪女の一人と言われている
政治に飽いた足利義政に代わって権力と経済力を手にして幕政を仕切り、将軍の後継争い
から「応仁の乱」(1467~1477)を招いたとされている
    平岩弓枝『日野富子』 永井路子『銀の館』 瀬戸内晴美『幻花』
    司馬遼太郎『妖怪』 田畑泰子『足利義政と日野富子』呉座勇一『応仁の乱』

  善 願 寺          京都市伏見区醍醐南里町

善願寺
      宗派  天台宗 来迎寺の末寺
  山号  誓弘山
  本尊  地蔵菩薩
  開基  行基
  中興の祖  慈恵大師(第18代天台座主)
  通称  腹帯地蔵



  
  奈良時代、光明皇后の発願により、僧行基に命じて地蔵尊を本尊として創建された
  現存する地蔵菩薩(重要文化財)は寺伝によれば平清盛が五男の「重衡」の安産を
  祈願して七条仏所の佛師により建立し奉納されたと伝える


腹帯地蔵













  「地蔵大仏」は丈六の座像で 腹部に裳の結び目があり これが腹帯に似るところ
   から「腹帯地蔵」として親しまれている

   一 言 寺          京都市伏見区醍醐一言寺裏町町
本堂


    宗派  真言宗醍醐派             
    山号  (醍醐寺塔頭)正式寺号(金剛王院)
    本尊  千手観音
    創建  伝・平安末期
    開基  伝・阿波内侍             
 

  御詠歌 「ただたのめ 佛にうそは なきものぞ 二言といわぬ 一言寺かな」



  遥か向こうの山並みは桃山丘陵と小栗栖の里

  


  平重衡の墓      伏見区醍醐外山街道町



この地は平重衡の北の方(大納言佐殿)が平家没落後   
身をよせていたと伝える





一の谷の合戦で捕らえられ鎌倉に送られた平重衡は南都焼討の責を問われ、鎌倉から奈良に引渡されたが途中、この地に立ち寄って大納言佐殿と別れを惜しんだ
その情景は、付近の相場川、琴弾山の名とともに平家物語に美しく語られている
木津河原におりて首をはねられた重衡の遺骸は、引き取られ火葬後、この地に埋葬された


  恵 福 寺(えいふくじ)          京都市伏見区日野西大道町
           
本堂











  鎌倉時代後期に盛尊上人により開山
      当時は隣接する法界寺の塔頭として創建されたと思われる 
  応仁の乱で戦火に見舞われるも復興し 1548年に天台宗から浄土宗に改宗
  平成22年に今の本堂が建てられた
 
       萱尾神社(かやおじんじゃ)         京都市伏見区日野西大道町


 
  祭神  大己貴命(おおなむちのみこと大国主命
  創建  藤原真夏(日野家初代)

本殿




655年に中臣(藤原)鎌足によって社殿が造営されたと
 言われているが定かでない(大化の改新の10年後の事)
キリシタン灯籠






 応仁の乱で焼失したが慶安5年(1652)に再建された
 法界寺の鎮守社,日野村の産土神(うぶすながみ)として崇敬を
 集めていた
 
「マリア観音」 江戸幕府のキリシタン禁令(1612)が出されて
信仰や布教ができなくなり その頃に作られたものではないか?
刻銘も何もないので詳細はわからない




・・・鴨長明が住んだ方丈庵跡地は 山手1キロ程の所に
   あるそうな・・・・・
          
 

  日野御廟所         伏見区日野畑出町
   
日野家五輪塔
日野真夏 勝光 有範 吉光女(親鸞聖人母)

日野御廟所










 

  日野家  儒道や歌道などで代々朝廷に仕えた公家  藤原真夏が始祖
  この山が奈良の春日野に似ていることから「春日野」と記して標木を立てたところ
  1匹の鹿が現れ「春」の一字を食べた事により「日野」の二字だけになって屋号を 
  「日野」に改めた
  日野富子  室町幕府8代将軍義政の正室。初め男子ががなかっため 
  義政の弟浄土寺義尋(義視)を還俗させて後嗣ととしたが、義尚が生まれたので
  後継者とするため山名宗全と結び義視を推す細川勝元と争い応仁の乱を引き起こした
                                                  (応仁の乱約11年)

親鸞聖人6歳
日野誕生院          京都市伏見区日野西大道町

本堂











  親鸞の誕生の地を記念して1931年(昭和6年)に建立された
  法界寺を建立した日野資業(すけなり)の五代後の子孫の日野有範を父として誕生する
  4歳の時に父を亡くし 8歳の時に母吉光女(清和源氏の義家の孫娘)が亡くなった
  9歳の時に叔父日野範綱に連れられて青蓮院で得度された
  当時 日本史上まれにみる飢饉で京都の市中だけでだけで42,300人もの餓死者が
  放置されていたと 鴨長明「方丈記」に記されている


      法界寺           京都市伏見区日野西大道町
阿弥陀堂

    山号  東光山
    宗派  真言宗醍醐派
    本尊  薬師如来坐像(重要文化財)
    創建  永承6年(1051)
    開基  日野資業(すけなり) 最澄





  この地を領した日野氏は藤原北家の流れを汲む名族であり 位の高さよりも学識の
  高さで知られた
  日野氏伝来の最澄自刻の霊仏をこめた鞘佛・薬師如来像を本尊とした(非公開)

平等院と同じ大きさの阿弥陀仏

壁画 飛天天人図















像高は280㎝ ヒノキの寄木造 
柔らかい表情と堂々とした姿 佛師定朝の様式である
解説して頂いた僧のお声も穏やかで重みを感じた
                  (終わり)

2019年8月14日水曜日

びわ湖花火大会

びわ湖の夏を華麗に彩る
                             2019-8-8  46名

  行程 枚方市 ラポール枚方前 15時15分ー桂川SA-びわ湖競艇場観覧席ー
     ー花火大会60分ー桂川SAー枚方(23時30分)
 
風船と紫式色のライトが目印ですよ
よそのグループに紛れないで下さい

バス№366わすれないで

























                                                               椅子に№が貼ってあるので自分の番号を探して着席
                              向こうにプリンスホテルや琵琶湖ホテルが見える



















      うあー 大声ダイヤモンド











カメラのタイミングが難しい


フィナーレ
     

       くらがりの 天地にひびく 花火かな    正岡子規

       一輪の 花火となりたる 揚げ花火     山口誓子

       早打ちや  花火の空は 艶まさり     中村汀女
                                    おわり

2019年7月13日土曜日

文学 歴史ウオーク(北野田)


織田作之助「夫婦善哉」を書いた北野田
                            2019-7-7   49名
 コース
  南海高野線北野田駅(9:30〉-堺市立東文化会館(講演・昼食)-野田城址ー
  伊勢道を経由し登美丘裏門近く西野文化村界隈ー大美野ロータリーと噴水ー
  丈6の織田作之助長屋ー北野田駅 (15:00 約3キロ)

  講師 井村身恒先生  著書「織田作之助の大阪」「私のオダサク」他多数 

講義
      井村躬恒先生
  1952年 堺生まれ堺育ち オダサク俱楽部代表
  著書「織田作之助の大阪」「私のオダサク」他・・



ぶらぶら探訪出発



 織田作之助「わが村」から
 なんとといふ理由もなしにこの村に住んでいるが訪れて
 来る人に言わせると、金剛、葛城、笠置その他の山々が
 見え、家の前には古い池があり なんとも環境の良い
 土地であるらしい・・・・・
 この草深い村が文化村といふ別名を持ってゐることの
   方が面白い

南海高野線




織田作之助が深夜酒に酔ってふらふらと帰る途中、水の流れ
に気が付くと鉄橋の上を歩いていたらしい

野田城址


 野田城址
 正中3年(1326)に野田荘の地頭をしていた野田四郎正勝が
 穂出籬山(ホデガキヤマ)の高台に築いた城
 楠木軍の掃討にあった野田氏は それ以降南朝の後醍醐天皇を
 奉り楠木氏に忠誠を尽くした
 三代目の兵部正康は 足利の大軍に包囲されたため 野田城に
 火を放って城外で戦い凄惨な戦場となり野田村は壊滅状態と
 なった

弘法大師御堂建立碑
伊勢道



和泉から河内に入る街道で 福町で西高野街道と連絡して
登美丘にはいる
昔から和泉地方からの伊勢詣でに使われた主要な街道で
北の竹内街道 南の河泉街道と並んで河内を横断する重要な
街道であった





   大美野ロータリーと噴水       堺市東区大美野
大美野ロータリー

バス停













 8本の道路が交わるロータリー交差点で中央島には噴水がある
 ここ大美野は関西土地会社が昭和6年(1931)に開発・分譲した 泉北でも指折りの
 歴史ががある住宅地で第一期の開発に先立ちヨーロッパを視察した技師下村喜三郎に
 よる宅地設計で 中央の噴水は分譲当初から存在していた
   見ていると車はロータリーを回って方向を変えていく
                (戦前はおしゃれな住宅が立ち並んでいたそうな)

 織田作之助長屋跡        堺市東区丈六
「オダサク」はここに住んでいました
家賃25円
      










              

                       
 愛妻一枝さんは良妻賢母型の良くできた婦人で昭和19年子宮癌に襲われ8月6日死去
                                   享年30歳
 :妻一枝午前十時十分過ぎ永眠す夜に入りて颱風となる。     
    風の音天を恨むが如し、一枝あわれ、一枝あわれ。:
               (いつも写真と髪の毛をポケットに入れていたそうな)

 織田作之助  大正2年(1913)~昭和22年(1947)  33歳没
 大阪市の仕出し屋の家にうまれる。三高時代から文学に傾倒し,昭和12年(1937)に
 青山光仁らと同人誌『海風』を創刊。自伝的小説「雨」を発表して注目される 
 昭和14年「俗臭」が芥川賞候補、翌年「夫婦善哉」が『文芸』推薦作となる
 昭和21年に当時の世俗を活写した短篇「世相」で売れっ子となった。
 12月ヒロポンを打ちつつ「土曜夫人」を執筆中喀血し、翌年1月死去。
  
  映画 夫婦善哉   森繫久彌 淡島千景 司葉子 浪花千栄子
     大店のドラ息子と芸者をしながら男の面倒を見る女の様子を描いた作品
    「頼りにしてまっせおばはん」「おおきに」軽妙な語り口と仕草を思い出す
     第6回ブルーリボン賞 第10回毎日映画コンクール賞      おわり
                

2019年6月27日木曜日

交野が原万葉学級




  因幡万葉の旅
                         2019-6-21    42名 
  スケジュール
   枚方バスターミナル(8:10)ー加西SAー砂丘センター見晴らしの丘ー
   仁風閣ー因幡万葉歴史館ー大伴家持の歌碑ー加西SAー枚方(19:00)

      枚方を出発して中国自動車道のSA加西でトイレ休憩をはさんで約3時間で
  砂丘センター見晴らしの丘に着いて昼食タイム

   砂丘センター見晴らしの丘      鳥取市福部町湯山

砂丘センター見晴らしの丘
せいろ蒸し御膳








ラクダに乗って砂山散歩

リフトで砂丘先端へ










     広い砂丘は美しい、気持ちがいい。

 仁風閣        鳥取市東町

バルコニーから庭を眺める

仁風閣(命名は東郷平八郎)










当時の皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の山陰行啓の宿泊施設として鳥取城跡の
扇御殿跡に鳥取藩主であった池田中博侯爵が明治40年(1907)にフレンチルネッサンスの洋風建築が建てられた「宮廷建築の第一人者片山東熊」が手掛けた(重要文化財) 
天守台

鳥取城は圧倒的な石垣で有名










小学唱歌 ふるさと

   城外に「ふるさと」の歌碑がありボタンを押すと
   歌手の声が流れる 鳥取市生まれの
   作曲家岡野貞一  明治11年~昭和16年

   春が来た 朧月夜 春の小川 もみじ 水師営の会見






  因幡万葉歴史館       鳥取市国府町町屋


古代因幡と万葉文化にふれる異空間(平成6年開館)
大伴家持が「万葉集」の最後を飾る歌詠んだ地、

古代因幡国に暮らした人々の歴史と文化を紹介している





因幡国は7郡50卿に組織されていた

 因幡国庁跡は鳥取駅の東南4㌔岩美郡国府郡の地
 にあった
 シンボルタワー「時の塔」から因幡国庁跡
 今木山 面影山 甑山が一望できる


大伴家持(安田靫彦画) 


万葉集写本(春日本の複製)



     





大伴家持は天平宝字二年(758〉因幡守となり、翌年正月一日
 に新年の宴を設け「万葉集」最後の歌をうたった


     天平宝字三年春正月一日因幡国庁賜響国郡司等之宴歌一首
     「新年之始乃波都波流能家布敷流由伎能伊夜之家騰」
     (あたらしきとしのはじめのはつはるのきようふるゆきのいやしけよごと)

揮毫者 犬養 孝
建立(19994年 平成6年11月 



  

新 年之初乃 波都波流能 家布敷流由伎能騰
                伊夜之家餘其

  (新しき 年の始めの 初春の 今日降る雪や
                いやしけ吉事)  

 在原行平の歌碑


  在原行平の歌碑
   たちわかれ いなばの山の 峰におふる
          まつとしきかば 今帰りこむ
                           「百人一首(古今集)」

 行平が因幡に赴任する途中、 須磨の海岸で汐汲みを 
  していた松風 村雨の姉妹に会い二人を連れてきた

  その行平が帰京する時の姉妹との惜別の歌という


舞台 
万葉衣装



                     




    
      

    10月には万葉衣装を着て万葉集の朗詠が催される

                     おつかれさま