江戸川乱歩ゆかりの守口を辿る
2020-9-6 43名
集合場所 大阪メトロ谷町線・守口駅改札口
コース 守口駅10:00-狼島跡―江戸川乱歩旧宅ー旧淀川の痕跡ー謎の境界線ー 五カ荘水路跡ー江信川跡ー太子橋跡ー摂津河内の境界線ー昭和の九軒長屋ー 旧千林村-ダイエー発祥地―京阪千林駅解散(約4km)
講師 西俣稔先生
毎日新聞大阪版連載「わが町にも歴史あり」の案内人
大阪保険医新聞「大阪先人の足跡をたどる」執筆…他
江戸川乱歩の居住跡
本命は平井太朗ですが アメリカの探偵作家エドガー・アラン・ポー
旧宅跡 |
から江戸川乱歩の筆名をつけた
『D坂の殺人事件』 1925年
『陰獣』 1928年
『黒蜥蜴』 1934年
『怪人二十面相』 1936年
『探偵小説四十年』 1961年自伝
名探偵「明智小五郎」は守口生まれ?
(執筆は守口だった)
乱歩作品の不気味な世界の原点は書斎から眺めていた葦や木がうっそうと茂る淀川沿い
の外島跡や狼島跡だったのかもしれません
乱歩は人間に潜む心理の屈折や怖さ、あるいは錯覚を描き どの作品も論理的に解決
できる筋書です
守口 大阪の謎の境界線
道路を斜めにはしる境界線 |
守口市竹町 |
大阪市旭区太子橋 |
不思議なことに守口市と大阪市旭区の境界線は隣接する家の間を境界線が通っている
淀川工科高校や守口第一中学校には境界線がグランドを横切っています
さて謎の答えは なんと奈良時代の天平十三年(741)奈良朝廷は国の境界は「河川の
中心か山の尾根」と定めた 当時ここを流れていた淀川の中心が 河内国と摂津国との
境界だった
明治30年代淀川の付替えで埋められて宅地化したのに境界だけが残っている
江野川跡 大阪市旭区
江野川暗渠の上は 阪神高速守口線 |
江野川の正式名称は[桶管統一水路]という
昭和以前の旭区は 純農村地帯だった 田畑の灌漑用水と
して淀川の堤防に樋門・桶菅を設け農業用水の取り込みを
していた
しかしこれらが老朽化すると堤防の安全に影響を与え
費用補修も多額に上がることから それらを統一し一か所
から取水して 堤内用水路で田畑に配分する計画をした
枚方市字伊加賀地先に新合同樋門を建設し 上庄・出口・ 二十箇・茨田・佐太・八雲・ 五箇・榎並の8用水路を まとめさらに流末の予備水路として在来の榎並用水の 一支江野樋の地点を起点に城北運河(現城北川)へ放流する計画で昭和9年通水が完了した
大阪万博(昭和45年)を契機に加速した市内近郊の高速道路(阪神高速守口線)整備の
ため江野川は暗渠化され約3,5㎞にわたる遊歩道が整備された
道路予定地に沿って大宮小学校 大宮中学校 大阪淀川工科高校など教育施設が並んで
いるため環境問題として反対運動が起きた。 話し合いが続けられ 高架橋の高さを嵩上
げしさらにプラスチック板の遮音壁を造ること及び江野川跡を緑陰道路化する事になる
大阪淀川工科高校 |
大阪淀川工科高校
創立 昭和12年(1937)
全日本吹奏楽コンクールで金賞最多
(NHKで練習をドキュメンタリー放送された)
豊里大橋(右折して前方に豊里大橋の斜張形が見える)
橋長561m
江戸時代前期から「平田(平太へいた)渡」があった
明治40年には府営になり大正14年には市営になり
昭和35年には発動機船になり1日約3000人と670台の自転車
を運んだ
豊里大橋の完成に伴って長い歴史の幕を閉じた
本橋は万国博覧会の関連事業として昭和45年に完成した
💛10年程前に枚方から天満橋まで淀川沿いをグループでウオークした時
鳥海大橋 豊里大橋 長柄橋と見上げながら淀川の大きさとそれぞれ優美な橋の姿を
楽しんだことを思い出す (歩数計が23000歩だったかな)
千林商店街にて解散12:30 おわり
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