尼崎城と城下を訪ねる
                             2019-11-3  54名
 コース
  阪神尼崎駅(9:00)ー本興寺ー尼崎障害学習センター(講演・昼食)-寺町     
 (専念寺、如来院、長遠寺、大覚寺、法園寺、甘露寺、広徳寺、善通寺、常楽寺、) 
  ー尼信会館-全昌寺ー機関銃掃射の塀ー開明橋ー櫻井神社ー尼崎城天守ー
  明城小学校ー大物橋跡ー大物主神社ー大物崩れ戦跡の碑ー残念さんの墓ー阪神大物駅
                                            解散
  講師  高田健一郎先生 
      著書  大和ノ祭り。西国街道。紀州街道・伝説と稗史(
ハイシ)。他・・・
  
本興寺                    兵庫県 尼崎市開明町        
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| 本堂 | 
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| 三重宝塔 | 
     宗派 法華宗本門流
  本尊 三宝尊
    創建 応永27年                                  (1420)
  開山 日隆
  開基 細川満元
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| 御霊水井戸 日隆上人が掘られた不動不滅の霊水
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| 三光堂 三光天子 鬼子母神 法華経信徒の守護神
 
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| 鐘楼 | 
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| 日隆上人 | 
11月3日は年に1度宝物虫干会の日で拝観者の大行列です
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| 刀剣 数珠丸 | 
刀剣数珠丸
日蓮上人が身延山を開山した時に信徒である波木井三郎が護身用に献上された 日蓮が太刀柄に数珠を巻いていたことから「数珠丸」の号が付いたとされる
天下五剣の中で唯一重要文化財指定である
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| 高田健一郎講師 | 
  ワンシビック尼崎 講義室・昼食
  尼崎城主の変遷
  細川高国ー晴元ー三好長慶ー松永久秀ー荒木村重ー
  池田輝政ー三好秀次ー建部政長ー戸田氏鉄ー青山氏ー
  松平氏
  廃城 明治6年(
1873)
 
寺町
 元和3年(1617)戸田氏鉄が尼崎築城を 命ぜられ 城下町形成の一環として寺院
 ばかりを集めて作った町江戸時代初期(1635)の絵図には20ヶ寺
 現在は11ヶ寺が軒を連ねている
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| 寺町案内板 | 
本興寺(法華宗)
常楽寺(浄土宗)
善通寺(時宗)
専念寺(浄土宗)
如来院(浄土宗)
長遠寺(日蓮宗)
大覚寺(律宗)
法園寺(浄土宗)
甘露寺(浄土宗)
立徳寺(臨済宗)
全昌寺(曹洞宗)
 
 
機銃掃射の塀

旧尼崎市立開明小学校の塀の一部に太平洋戦争末期の
米軍機の機銃掃射による弾痕 昭和20年3月から8月まで
10数回の空襲で 死者479人家屋全壊11000戸
              罹災者42000人
     
櫻井神社        尼崎市南城内               
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| 社殿 | 
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| 桜花の屋根瓦 | 
 祭神 桜井氏代々城主
 創建 明治15年(1882)
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| 赤十字社の説明 | 
  尼崎城最後の城主細川忠興は明治10年の西南戦で 
  敵味方の区別なく戦傷者を看護され
  これが世界赤十字に認められ日本の赤十字社の誕生を
  見るに至る
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| 国学者契沖の碑 | 
国学者契沖の生誕地である
寛永17年(1640)~元禄14年(1701)
真言宗の僧であり国学者である
  和歌の浦に至らぬまでもきのくにや
           心なくさのやまと言の葉
     
尼崎城天守閣
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| 復元天守 | 
 
      別名   琴浦城 琴城 尼丘城
  築城主  戸田氏鉄
  廃城   明治6年(1873)
 1618年藩主戸田氏鉄が築いた4重4階の白亜の相塗籠(
ヌリゴメ)天守、櫓が大阪湾から
   みると海に浮かんでいるように見える美しい城であった
(旧ミドリ電化創業者 案保詮は創業の地に恩返しがしたいと考え10億円以上の
 私財を投じて尼崎城復元した。  「一口城主」や「一枚瓦」の寄付も行っている)
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| 旗印 | 
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| 鎧 陣羽織の試着体験 | 
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| レプリカ | 
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| レプリカ | 
    本丸跡地に昭和15年(1940)明城小学校の教職員と児童が
    4月~7月(一学期)かけてコンクリートで建てた
 大物(だいもつ)くずれ戦跡    尼崎市大物町
 大物(だいもつ)くずれ戦跡    尼崎市大物町  
 戦国時代室町幕府の実権を握った細川氏は内部で対立で
 細川政元の養子高国と同じく養子澄元・晴元父子が対立
 尼崎の地でたびたび戦火を交え享禄4年(1531)両者決戦
 で高国勢は総くずれになり 大物の広徳寺で自刃した
 残念さんの墓
                                        
 残念さんの墓     尼崎市杭瀬南新町
  
 長州藩足軽 山本文之助の墓
 元治元年(1864)の禁門の変に従軍していたが
 長州藩が敗北し 京都から敗走途中に大物の城下町で
 捕らえられ取り調べ中に「残念 残念」と叫びながら 
 自決した
 当時の「長州びいき」からおおくの人が参詣し    
「残念さん」に願をかければ 願いが叶うと密かな信仰
 となり残念さんと呼ばれるようになった
                                  おわり