2019年9月23日月曜日

文学歴史ウオーク(徳島県)



藍染めと大塚美術館
                          2019ー8--4  46名
  行程
  JR環状線森ノ宮駅前(8:00)バスに乗車-徳島県藍住町・藍の館(見学・藍染体験)
  ー大塚国際美術館ー大阪駅(19:00)
88観光
ご挨拶




 








  藍住町歴史館                    徳島県板野郡藍住町
藍の館

 阿波藍の歴史
 期限は平安時代初期に荒妙(あらたえ)と言う布地を
 織っていた阿波忌別(いんべ)氏が栽培したという伝承
 がある
 天正13年(1585)以来徳島藩では藍の生産を奨励し
 藍商から取り立てる租税で藩の財政を確立していった


  

  藍商屋敷   (旧奥村家 文化5年(1808)建築の母屋 3棟の寝床(藍加工場)
     大藍商であった旧奥村家11代当主は昭和62年に藍住町に寄付され13万点に及ぶ
   文書 民族資料が保管されている
幕末木綿染と藍入花瓶

 
  









波にぬれ引き返し来る敦盛の蹄の音か・・・・

筑前琵琶の語りが室内に響く












     艶やかに悲しげに語り声が朗々と辺りに響き、聞き入る

殿下御製

  皇太子殿下
     いとけなき吾子の笑まひにいやされつ
                                     子らの安けき世をねがうなり 
    皇太子妃雅子殿下
        輪の中のひとり笑えばまたひとり
                幼なの笑ひひろがりてゆく
    秋篠宮文仁親王殿下
     人々が笑みを堪えて見送りし
            こふのとり今空に羽ばたく
  紀子親王妃殿下
                      飛びたちて大空にまふこふのとり
                            仰ぎてをれば笑み栄えくる

   工房で藍染め
出来上がりました

30秒つけて引き揚げ分(繰り返し3回)











     工房の藍染め体験は以外と簡単で輪ゴムでしっかり絞り込み
  藍汁に浸け染めー水洗ー乾かす(レンジ)ーアイロンをかけて誰もが嬉しい顔、顔


   大塚国際美術館            徳島県鳴門市鳴門町 鳴門公園内



 鳴門海峡の白砂海岸の一握り砂から白タイルを生産し
 2万点の色を開発し完成度の高い美術陶板を製作

 古今の西洋名画が色あせることなく後世への遺産として
 保存される
レストランで昼食13:00









システィーナ・ホール


モナザ(ダ・ヴィンチ)
















真珠の耳飾りの少女(フエルメール)
最後の晩餐(ダ・ヴィンチ)















睡蓮庭園
モネの睡蓮壁画の前で











    実際の名画を見るがごとく迫力や臨場感を味わえたが大変に疲れた。

帰路 淡路SAから瀬戸の海を眺める


2019年9月2日月曜日

文学歴史ウオーク(伏見)




日野家ゆかりの伏見を歩く
                              2019-9-1  46名
 コース
   京都市営地下鉄東西線醍醐駅(10:00)→ 醍醐市民交流センター(講演・昼食)→
   善願寺→ 言寺→平重衡の墓→恵福寺→萱尾神社→日野御廟所→日野誕生院→
   法界寺(解散15:00  約4㌔)

  醍醐市民交流センター
応仁の乱の関係の小説紹介
菊池崇憲先生(中央)










「日野富子」は日本歴史三大悪女の一人と言われている
政治に飽いた足利義政に代わって権力と経済力を手にして幕政を仕切り、将軍の後継争い
から「応仁の乱」(1467~1477)を招いたとされている
    平岩弓枝『日野富子』 永井路子『銀の館』 瀬戸内晴美『幻花』
    司馬遼太郎『妖怪』 田畑泰子『足利義政と日野富子』呉座勇一『応仁の乱』

  善 願 寺          京都市伏見区醍醐南里町

善願寺
      宗派  天台宗 来迎寺の末寺
  山号  誓弘山
  本尊  地蔵菩薩
  開基  行基
  中興の祖  慈恵大師(第18代天台座主)
  通称  腹帯地蔵



  
  奈良時代、光明皇后の発願により、僧行基に命じて地蔵尊を本尊として創建された
  現存する地蔵菩薩(重要文化財)は寺伝によれば平清盛が五男の「重衡」の安産を
  祈願して七条仏所の佛師により建立し奉納されたと伝える


腹帯地蔵













  「地蔵大仏」は丈六の座像で 腹部に裳の結び目があり これが腹帯に似るところ
   から「腹帯地蔵」として親しまれている

   一 言 寺          京都市伏見区醍醐一言寺裏町町
本堂


    宗派  真言宗醍醐派             
    山号  (醍醐寺塔頭)正式寺号(金剛王院)
    本尊  千手観音
    創建  伝・平安末期
    開基  伝・阿波内侍             
 

  御詠歌 「ただたのめ 佛にうそは なきものぞ 二言といわぬ 一言寺かな」



  遥か向こうの山並みは桃山丘陵と小栗栖の里

  


  平重衡の墓      伏見区醍醐外山街道町



この地は平重衡の北の方(大納言佐殿)が平家没落後   
身をよせていたと伝える





一の谷の合戦で捕らえられ鎌倉に送られた平重衡は南都焼討の責を問われ、鎌倉から奈良に引渡されたが途中、この地に立ち寄って大納言佐殿と別れを惜しんだ
その情景は、付近の相場川、琴弾山の名とともに平家物語に美しく語られている
木津河原におりて首をはねられた重衡の遺骸は、引き取られ火葬後、この地に埋葬された


  恵 福 寺(えいふくじ)          京都市伏見区日野西大道町
           
本堂











  鎌倉時代後期に盛尊上人により開山
      当時は隣接する法界寺の塔頭として創建されたと思われる 
  応仁の乱で戦火に見舞われるも復興し 1548年に天台宗から浄土宗に改宗
  平成22年に今の本堂が建てられた
 
       萱尾神社(かやおじんじゃ)         京都市伏見区日野西大道町


 
  祭神  大己貴命(おおなむちのみこと大国主命
  創建  藤原真夏(日野家初代)

本殿




655年に中臣(藤原)鎌足によって社殿が造営されたと
 言われているが定かでない(大化の改新の10年後の事)
キリシタン灯籠






 応仁の乱で焼失したが慶安5年(1652)に再建された
 法界寺の鎮守社,日野村の産土神(うぶすながみ)として崇敬を
 集めていた
 
「マリア観音」 江戸幕府のキリシタン禁令(1612)が出されて
信仰や布教ができなくなり その頃に作られたものではないか?
刻銘も何もないので詳細はわからない




・・・鴨長明が住んだ方丈庵跡地は 山手1キロ程の所に
   あるそうな・・・・・
          
 

  日野御廟所         伏見区日野畑出町
   
日野家五輪塔
日野真夏 勝光 有範 吉光女(親鸞聖人母)

日野御廟所










 

  日野家  儒道や歌道などで代々朝廷に仕えた公家  藤原真夏が始祖
  この山が奈良の春日野に似ていることから「春日野」と記して標木を立てたところ
  1匹の鹿が現れ「春」の一字を食べた事により「日野」の二字だけになって屋号を 
  「日野」に改めた
  日野富子  室町幕府8代将軍義政の正室。初め男子ががなかっため 
  義政の弟浄土寺義尋(義視)を還俗させて後嗣ととしたが、義尚が生まれたので
  後継者とするため山名宗全と結び義視を推す細川勝元と争い応仁の乱を引き起こした
                                                  (応仁の乱約11年)

親鸞聖人6歳
日野誕生院          京都市伏見区日野西大道町

本堂











  親鸞の誕生の地を記念して1931年(昭和6年)に建立された
  法界寺を建立した日野資業(すけなり)の五代後の子孫の日野有範を父として誕生する
  4歳の時に父を亡くし 8歳の時に母吉光女(清和源氏の義家の孫娘)が亡くなった
  9歳の時に叔父日野範綱に連れられて青蓮院で得度された
  当時 日本史上まれにみる飢饉で京都の市中だけでだけで42,300人もの餓死者が
  放置されていたと 鴨長明「方丈記」に記されている


      法界寺           京都市伏見区日野西大道町
阿弥陀堂

    山号  東光山
    宗派  真言宗醍醐派
    本尊  薬師如来坐像(重要文化財)
    創建  永承6年(1051)
    開基  日野資業(すけなり) 最澄





  この地を領した日野氏は藤原北家の流れを汲む名族であり 位の高さよりも学識の
  高さで知られた
  日野氏伝来の最澄自刻の霊仏をこめた鞘佛・薬師如来像を本尊とした(非公開)

平等院と同じ大きさの阿弥陀仏

壁画 飛天天人図















像高は280㎝ ヒノキの寄木造 
柔らかい表情と堂々とした姿 佛師定朝の様式である
解説して頂いた僧のお声も穏やかで重みを感じた
                  (終わり)