2018-5-20 40名
コース 交野市駅~逢合橋~東高野街道(本尊掛松跡~上の山の辻、大峰山道標)~
閲武駐蹕記念碑(大正天皇)~山根街道~畠山家代官北田家住宅、長屋門~
私部城跡~交野市駅 (徒歩約3.5㌔)
交野市 私部地区 |
砂子坂(すだこざか) |
砂子坂 交野市私部
昔 天の川はよく氾濫し 山からの土砂が低湿地である
砂子のあたりに堆積してついた地名と思われる
逢合橋(あいあいばし) |
逢合橋
伝説では織姫と牽牛がこの橋で出会うとされている
貝原益軒の紀行文「南遊紀行」の中で[天の川の源は
生駒山の下の北より流れ出て、田原という谷を過ぎ、
岩船に落ち、私市村の南を経て、枚方町の北へ出て淀川に入る
獅子窟山より天の川を見下ろせば、砂川に水少なく、ひろくして、長くしてあたかも
天上の銀河(天の川)の形のごとし、
凡そ諸国の川を見しに、かくの如く白砂のひろく直にして数里長くつづきたるけるは
いまだ見ず「天の川」と名付けし事むべなるなり・・・・・・・・]
七夕万葉歌碑 |
万葉歌碑
「彦星と 織女と今夜逢う 天の川門に 波立つなゆ」
(あの彦星と織女星とが 今夜逢う天の川の渡り場に
波よ 立つな決して)
巻10-2040 作者 不詳
本尊掛松跡 |
本尊掛松跡 枚方市茄子作
融通念仏踊りの発祥の地とされる。元亨元年(1321)
法明上人が石清水八幡宮へと向かう途中で 迎えの
八幡宮社人から、十一尊天得如来の画軸を受け取った
場所で、その掛け軸を近くの松の木にかけて念仏を唱え
感激のあまり踊ったという伝説地
道標 道標
右 宇治道 右 山根街道 私部口津田
左 京八幡道 左 明治三十七年一月建立
裏 すぐ東高野海道
閲武駐蹕記念碑(えつぶちゅうひつきねんひ 交野市私部西
閲武駐蹕記念碑 |
演習部隊配置図 |
大正天皇が大演習をごらんになる為一時 馬から
下りられた所。 *蹕(ヒツ。さきばらい。)
大正3年(1914)11月15日~17日
参加した兵士4万人 物資の輸送,審判、見学者含め10万人
動員兵力だけで秀吉と光秀による天王山決戦とほぼ同数
北田家住宅 交野市私部1丁目
長屋門 |
民家では日本一の長さ55,9m |
地元では代官屋敷と言われている
もと私部城主安見氏の重臣で 江戸時代旗本畠山の代官職を務めた
南北朝時代の南朝方に仕えていた武将・北畠顕家(きたばたけあきいえ)につながり
南朝没落後、足利家の世となったのを機に民間に下り、その姓をはばかって「北畠」の
白を除き「北田」と称したといわれる
関ヶ原の戦い後、徳川家康が天下を統一し幕藩体制をしいたのに伴い元和5年(1619)
畠山の子孫」・旗本畠山修理大夫が、私部の3分の2を所領するに及んで北田家は
この地の庄屋を務めることになる
18世紀前半には代官職を担うようになった (屋敷公開は春と秋の2季制)
無量光寺 (むりょうこうじ) 交野市私部
無量光寺門 |
山号 無碍光山(むげこうざん)
宗派 浄土真宗本願寺派
本尊 阿弥陀如来立像
創建 嘉吉元年(1441)了道によって真宗に転じた
鐘楼 |
曾ては住吉神社の西の方に天台宗の寺として建立された
1441年足利軍に焼かれたいわれているが資料がない
当時の了道は蓮如上人の教えを受けて浄土真宗に転じた
梵鐘
享保15年(1730)の作。太平洋戦争時の金物供出を
免れ現存している
交野市指定樹木のイチョウの木 |
想善寺
交野市私部
山号 修元山
宗派 浄土宗西山派
本尊 阿弥陀如来坐像
河内三十三所観音霊場第十六番札所
寺歴によると 天正年間に惣善なる人が念仏生活をしたのが始まりという
経の巻鬼瓦 |
経の巻鬼瓦 |
古くから交野は良質の粘土を産し 多くの瓦窯があった。
この瓦には「私瓦八」の銘があり、河州交野郡私部村 瓦師 大矢八兵衞(文政年間)
の釜で焼かれたもの
同銘の瓦は小田原城でも発見されており 私部瓦として良質の粘土と共に
私部瓦師達の優れた造形力も高く評価されていた
経の巻(京の巻)鬼瓦 |
光通寺 交野市私部
山号 長寿山
宗派 臨済宗東福寺派
本尊 聖観音菩薩
創建 室町時代
開基 別峰和尚
大阪の陣の兵火で焼失し、元禄の頃 覚海が中興する
本堂には後村上天皇と、土御門天皇の位牌が祀られている
朝廷にお茶を献上するなど極めて力のある寺であった
石垣地蔵(お薬師さま) |
石垣地蔵(阿弥陀さま) |
私部城址 私部5丁目
私部城址 |
私部城跡 |
別名 交野城 連郭構造の平城
築城 永禄8年(1565) 廃城 天正9年{1581)
私部城は室町時代に築かれた河内の豪族畠山氏の家臣安見右近氏の居城である
一段低い所にある田や畑は城を守った堀の跡で 小高い山は郭(くるわ)と
呼ばれる陣地で城の中心部である
守りの弱い地形でありながら地形を巧みに生かして城が築かれ、落城の記録は無い
織田信長軍が河内、摂津に進出する際の拠点となった
本能寺の変後に廃城された
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地名 私部(きさべ)
大和朝廷時代 皇后の事を司る役所を「私府」。それに当たる人を 「私官」。
仕事をする人を「私部」と言っていた
「私」という字は「后」と同じ意味で「きさき」と読んでいた
「部」は朝廷に属する各種職業人の集団ということで 皇后のために
する人達は「私部」と言われていた
交野地方の「私部」は皇后のための稲作を行う人達という役職名で それが
集団名となって地名に残されてきた
交野ものがたり おわり
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