6月例会 近江国庁跡~石山寺
2016-6-1 31名
集合 JR京都駅2番線ホーム
時間 9時30分
行程 JR瀬田駅ー近江国庁跡ー建部神社ー雲住寺ー瀬田の唐橋ー石山寺
JR草津駅に9:50分到着 ガイドさんの導きで出発
江戸から120番目の「1里山1里塚」
近江国庁跡 近江国府は大津市瀬田大江三丁目付近である
1963年(昭和38年)と昭和40年の発掘調査で 国府の広さは八町から九町四方であったと
推定される
遺構は前後2時期に区分される。 前期は奈良時代中ごろ 後期は平安初期以降で
10世紀末ごろまで存続したと考えられる
50年ほど前に団地建設の工事中に遺構が見つかり 発掘された
奈良平安の頃では琵琶湖も見え行き交うi舟の監視やまた比良の雄大な山脈も望めたであろう
建部神社
滋賀県 大津市神領一丁目
祭 神 日本武尊 大己貴命(おおなむちのみこと)
創 建 (伝)第12代景行天皇46年
古くから歴代朝廷の尊信が篤い
平安時代末 源頼朝が平家に捕えられ伊豆に流される
途中建部大社に立ち寄って源氏の再興を祈願し
願いが叶って以来 武運の神として信仰を集めている
三本杉
神紋(三本杉)
拝殿前に立つ三本杉は 大己貴命が権殿に祀られた際に一夜に成長したと云われる
日本で最初の千円札
建部神社神殿と日本武尊
県内最古の石灯篭
蒙古襲来の時に国家安泰を祈願して建てたとされる
龍神を祀る六角堂
龍宮秀郷社(雲住寺)(むかで退治の話)
醍醐天皇の時代 藤原秀郷(俵藤太(たわらとうた)は勇名をとどろかした武将だった
瀬田の橋に大蛇がでて往来を妨げていた。橋を通った秀郷はこれをものともせずに
その背中を渡って行く すると突然 翁が現れて「私は橋の下に住む龍神です
三上山を七巻半もする大ムカデが出て 苦しめられているので退治してくだされ」と言った
秀郷が射った二本の矢は次々に跳ね返えされた 三本目には自分の唾をつけて射ると見事に
眉間に突きささり ムカデは退治された
龍宮より 一俵の米と一反の布と立派な釣鐘を与えられた 釣鐘は三井寺に納められている
瀬田の唐橋
著名な文豪が屋敷から比叡の山脈に落ちる夕日を鑑賞した(今はマンションが邪魔)
歴史
古来より「唐橋を制する者は天下を制す」といわれ 昔から様々な戦乱に巡り合ってきた
壬申の乱 寿永の乱 承久の乱 建武の乱
諺 「武士(もののふ)のやばせの舟は早くとも急がば廻れ瀬田の長橋」
東から京へ上るには矢橋の港から大津の航路が早いが比叡おろしの強風で遅れる事
がある
逸話 武田信玄は 臨終の際に「瀬田橋に風林火山の我旗をたてよ」と言ったエピソードがある
近江八景
瀬田の唐橋 唐崎の夜雨 粟津の晴嵐(あわずのせいらん) 堅田の落雁
比良の暮雪 石山の秋月 矢橋の帰帆(やばせのきはん) 三井の晩鐘
上方落語(近江八景)
・・・・・・・・何しろあれを 全部三十一文字に詠み込むのん大変でっせ・・・
近江八景を三十一文字の歌ん中に詠む込めたら 駕籠賃をただにしてやる
と駕籠屋が言うた
「乗せたから、先は粟津か、ただの駕籠、比良石山や、馳せらしてみい」
石山寺 滋賀県大津市石山寺1丁目 開基 良弁 本尊 如意輪観音
西国三十三所観音霊場の第13番札所。聖武天皇の発願により良弁によって開かれた
広大な境内にはこの寺の由来となった天然物の硅灰石(けいかいせき)がそびえている
グループはここで一時解散になり 石山寺拝観組と JR石山駅までウオーク組に分かれる
ウオーク組・・・・・JR石山駅14:30・・・JR東福寺14:52・・・京阪枚方市16:00(19000歩)
お疲れさま