2016年2月22日月曜日

枚方山歩きの会

 京都 の名所・史跡を巡る街中ウオーク
                                             2015-2-14  28名

    八大神社~宝ヶ池~下賀茂神社

    集 合  叡山電鉄 出町柳駅前 8:30

    コース  一乗寺駅~八大神社~鷺森神社~赤山禅院~三宅八幡宮~宝が池
          ~下賀茂神社~糺の森~出町柳駅
   











     


       前日来の雨は 今朝の6時までも降り続いて出かけるのに気分が重かったが「一乗寺駅」の
 
  ホームに降りた時には すっきりと晴れて 明るい笑顔で挨拶を交わす

                                              八大神社
                       
   創  建  永仁2年(1294)                    
   御祭神   一乗寺の産土神
          氏神として素戔嗚尊 稲田姫命 八王子命

   先年 10月5日に訪れた時は「湯立神事」が催行されて
   氏子の古老方と共に 神事に参列させていただき
   古式ゆかしい行事に深く感動した



  宮本武蔵のブロンズ

  慶長九年(1604) 剣豪宮本武蔵が吉岡一門と決闘して400年
  を記念して当時21歳の武蔵像が建立された

    吉川英治の「宮本武蔵」で有名だが真実はどうであったか
  
  吉岡一門は京都の足利将軍方の兵法で師範を務めた名門で
  武蔵と吉岡一門の決闘は前後三度 行われている

  一乗寺下がり松の決闘では吉岡方は70余名だった
  武蔵に敗れた後は剣を捨て京都西洞院で染屋を始めたそうな


現存する当時の一乗寺下がり松                      現在の下がり松は四代目






            


             




  吉川英治 「随筆 宮本武蔵 遺跡紀行」 より

  一乗寺下がり松の追分を 眼の下に見下ろすと、その仏暁(ぶつぎょう)に武蔵がどう闘い
 の地へ臨もうかと苦念したかという気持ちが突然暗い松かぜの中から囁かれて解けたような
 暗示を受けた
 ここから静かに下がり松をみる。とすると、実に絶妙な足場なのである。高い土地から敵の
 背面を衝いて、突如と吉岡の本陣へ直進することができる地は、絶対にここの山腹よりない
 気がする。    { 仏暁=夜明け }



 鷺森神社   創 建  貞観年間(859~877)
          主祭神  素戔嗚尊

  最初比叡山の麓にあったが 応仁の乱の兵火で罹災し
  修学院離宮の山林中に移されたが 離宮造営の為
  
  現在の鷺の社に元禄2年御遷座になる


                     音羽川
       全長1.2キロ 
       北岸よりに比叡山の登山路 雲母坂がある
       馴染みの連中が「きららざか」と嬉しく語り合ってる




 修学院離宮


 明暦2年~万治2年(1656~59)
 後水尾上皇が造営した広大な山荘 約54万5000㎡

   20数年前に拝観した記憶が甦りもう1度訪れたいと思う
 自然と建物の調和が絶妙で豊かさと優美さに深く感動した


   赤山禅院    京都市左京区修学院開根坊町

   天台宗
   開創  仁和4年〔888)
   本尊 泰山府君 (赤山大明神)

  京都御所から見て表鬼門の方角に当たるため、方除けの 
  神と して古来信仰を集めた
  
  比叡山延暦寺の「千日回峰行」において うち100日の間は 
  「赤山苦行」という荒行がある。



 高野川をさかのぼれば八背、大原の里であり 向こうには
 比叡山が悠然と構えてる 

 学生時代 校舎の屋上に上ってよく眺めていた懐かしい姿
 あの頃 ハイネの詩                          
      「山の彼方の空遠く 幸い住むと人はいう・・・・・・・」  
     を暗証していた 



  
                        三宅八幡宮

                    御祭神  応神天皇(八幡大神)  
 
    小野妹子が遣隋使として隋におもむく時に宇佐八幡に    
  安全を祈願して 無事に帰国した恩に報いるため 八幡神を
  勧請したと伝えられている
  応仁の乱で全焼したが数十年後に里人達によって復旧した

  俗に虫八幡ともいわれ 子供の「かん虫封じ」の神として信仰されていた
  80年昔の事になるが 母に連れられて「出町柳」から乗合馬車に乗って行き、おでこ(額)
  にまじないの ● しるしをつけられて鳩餅を食べるのが楽しかった懐かしい思い出話を
  すると「へー!80年前ッ!」「かん虫って何?」と笑われてしまった


 宝ヶ池公園で昼食タイム

 江戸中期 灌漑用のため池であった
 昭和39年 国立京都国際会館の設立に伴い 拡張整備
 され子供の楽園もあり 市民の憩いの場である (62,7ha)

 静かな湖面にオシドリがのんびり泳いでいる

 
 賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ) 通称下鴨神社

 主祭神  玉依姫命(たまよりひめのみこと)
                       (上賀茂神社祭神の母) 
        賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)
                          (玉依姫命の父)
 創 建   不詳 (崇神天皇7年頃)

 御粥祭(1月15日) 流鏑馬神事(5月3日)御蔭祭(5月12日)
  葵 祭 (5月15日) 御手洗まつり(8月丑の日)
                                                            蹴 鞠 はじめ(毎年1月4日)
           


    













  御手洗川にかかる輪橋(そりはし)

        傍らの梅は「光琳の梅」と呼ばれる尾形光琳の「紅白梅図屏風」(国宝)に描かれた梅の木

ハイ! 1+1=2ィ~~

全員集合


           
        糺の森             縄文時代から生き続ける3万6千坪の森で その昔は

150万坪におよんでいたと伝えられている

 樹齢600年から200年の樹木が約600本にも数えられる
 奈良 平安時代より 詩歌管弦、物語にもうたわれてきた

 世界遺産である下鴨神社を久し振りに訪れて古都千年の  
 歴史と趣を誇りに思った

 ここで自由解散 14:00  25800歩   お疲れさま!
 
                             

2016年2月16日火曜日

菜の花忌


 
  司馬遼太郎記念館     東大阪市小阪3丁目  近鉄 八戸ノ里駅から10分

                          2016ー2-12(金)

入館者がぞくぞくと入っていく
                      

                       



                    1961年春    司馬遼太郎自筆の歌碑



                         初期作品を書いていた文机
 
  1956年
 「ペルシャの幻術師」
            講談倶楽部賞
 1959年
 「梟の城」    直木賞

 1960年  
 「花咲ける上方武士道]
    「風の武士」  「戦雲の夢」





書斎  亡くなった当時のまま
                    「街道が行く」執筆中        
館内の書庫
  
  高さ11m   蔵書約2万冊 (邸の廊下には6万冊)

  聞くところによると
  「竜馬が行く」の資料は 1等資料 新聞記事 ゴシップ
   郷土史等全て3000冊   金額1000万円
                     
パソコンの無かった時代にどのような時間の使い方でどのように 執筆されたのか 凡人が想像することではないが

         











                         寄付者銘板
               (自分の名前を探している人がいた)

2015年8月19日 大阪府の登録博物館が建築家 安藤忠雄の設計で設立した

総工費7億5400万円そのうち5億5千万円が8400名の寄付

  
  上村洋行館長がホールで講演150席は超満席の為 2時と3時の2度の講演となる

  氏は義弟で小学生の頃 高校時代の 思い出等・・・・・・・・・・・・・・・
    
  会館を出るとき1人づつ菜の花を手渡されて、 菜の花ロードをゆっくり歩いて帰る














  司馬遼太郎が新聞記者時代に雑誌「信仰」に本名で書いたエッセーのなかから

      ” 「門前の小僧」 五年 ”    福田定一
  
  ”君、「宗教」 を担当しないか”
  最初、デスクからこう命ぜられたときは、正直、どきりとした。まだ、紅顔、血気の年である、
  血なまぐさい事件でも追っていたころだ、むろん、宗教的素養などはこれっぽちもない。

  京都にやって来て間もないころだから、地図をみてやっと東・西本願寺を分別し

  あいさつにうかがった。 当時西本願寺は佐々木才正、石原芳正、鹿苑宇宙、東本願寺に
  竹田淳照の諸氏が渉外関係におられて、闇から牛を突出したような物知らずの若僧記者を
  懇切に教導してくださったことは一生忘れられない思い出である。

  教団をしるにはまずその歴史を知ればよかろうと思い、本願寺関係の史料は手当り次第に
  漁った
  最も感銘したのは中世末期から近世初頭にかけての本願寺勃興期の歴史だった・・・・・・・
  
                 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆   ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
  エピソード
 ・ 速読家で、ある友人と家で話してた時 その友人がコーヒーを一杯飲み終るうち、
   会話をしながらであるにもかかわらず、文庫本ぐらいの大きさの本を一冊読み
    終わっていた
・ 資料集めへの執念はすさまじく、一度に何千万円という巨費を投じて買い集めた

    古本屋へ他の作家が行っても何もないことが多々あったそうな
  
  ・ 私生活の面では 中村玉緒のフアンで そのお辞儀の美しさに見とれたという