2016-12-6-7 24名
行程 一日目 新大阪(7:40)(新幹線こだま)ー京都ー小田原ー小田原宿・小田原城ー大礒宿
ー平塚宿ー藤沢・ホテル法華クラブ藤沢(泊)
二日目 藤沢宿・・・遊行寺ー戸塚宿ー品濃一里塚・・・保土ヶ谷宿ー神奈川宿ー川崎宿
・・・六郷の渡し跡ー品川・品川プリンスホテル(泊)
三日目 品川・・・泉岳寺・・・増上寺・・・日本橋(東海道の終点ゴール)
東京(新幹線のぞみ)-京都ー新大阪(20:00)着
小田原駅前にてバスに乗車 |
車窓から曇空の富士山 |
小田原宿 本陣四軒 脇本陣四軒 宿内人別5404人(箱根から4里8町)
江戸幕府は防御の目的で この酒匂川(さかわがわ)に橋を架けず 渡し舟も禁止したので
旅人は川越人足に賃金を払って渡るしかなかった
最初に対岸に着いた人は 4人の人足が担ぐ平輦台(ひられんだい)に乗っており、次の立派
な駕籠に乗った武士は大勢が担ぐ大高欄輦台(だいこうらんれんだい)で渡っている その後
を肩車で続くのが 槍持とお付きの武士であろう
対岸では宿駕籠で来た旅人ほか数人が渡しを待っており その右側では人足たち五人が
休息している この川を渡った先に小田原宿が見え隠れしている
山の麓には高い石垣に囲まれた小田原城が威容を誇るかのようにたたずんでいる
ボランティア解説女性 |
天守閣へ通じている登城ルートにある二ノ丸の表門
扉の飾り金具に銅を使用している
天守閣 |
3代城主 北条氏康の時代には難攻不落と言われ 上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えた
八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を 総延長9kmの土塁と空堀で取り囲んであった
天守閣から石垣山を見る |
左手前のなだらかな笠懸山の中腹に「一夜城」が建てられた
1590年(天正18年)
穴太積みの石垣地震にも強い |
石垣山というようになった)
豊臣秀吉が
小田原攻めの際に小田原城の
西3キロにある笠懸山の山腹に4万人
を動員して80日で総石垣で造り完成後
周囲の樹木を伐採したので 一夜で城が
現れた
小田原城中の将兵は驚き士気を失った
石垣山から小田原城を眺む |
連理木(ヒノキ ケヤキ)縁結びの木 |
大 礒 宿(虎が雨) 本陣三軒 脇本陣なし 宿内人別3056人(小田原から4里)
右側の」こんもりした山は高麗山(こまやま)で この山には 「曽我物語」に出てくる曽我十郎の
愛人である遊女虎御前が 十郎の冥福を祈るために出家して結んだ庵があった
この図は虎御前が十郎をしのんで流す涙雨を指しており 雨景となっている
画面左方の松林のある海岸線は小余綾(こゆるぎ)の磯といって 古来歌枕として親しまれてきた
西行法師がこの磯で「こころなき 身にもあはれはしられけり 鴫立沢の秋の夕暮」の歌によって
ここを鴫立沢と呼ぶようになったとも言われている
緩い登り坂をゆっくり歩く |
東海道松並木わずかに残ってる |
この辺り一帯には 旧伊藤博文邸である「滄浪閣」や三井財閥の別荘 旧吉田茂邸もある
鴫立庵 |
俳諧道場で 京都の落柿舎 滋賀の無名庵と並び日本俳諧
道場の一つとされる
「鴫立沢」の碑 |
石碑の裏側に「著盡湘南 清絶地」と刻まれている
この標石が湘南と言う言葉の始まりである
平塚宿 本陣一軒 脇本陣一軒 宿内人別2114年(大礒から27町)
平塚宿の境界を示す榜示杭が道の手前に立っている
もっこりした高麗山(こまやま)の背後に)富士山見え右には大山参りで名高い大山が聳える
平塚へ急ぐ飛脚と、大礒宿への帰り客を見つけられず空き駕籠を担いでとぼとぼと帰る
駕籠かきがすれ違おうとしている
曲折」した道の彼方に旅僧と百姓の姿もある
平塚の碑 |
地名の由来
桓武天皇の孫 高見王の娘である平政子が都より東国へ
下向の途中(857年) この地で亡くなった
柩はここで埋葬され墓として築かれた その塚の上が平ら
だったので里人は「ひらつか」と言っていた
鏡山お初の墓 |
鏡山お初物語 明和6年(1769)
江戸屋敷の中老岡本みつ女の許に奉公にあがっていた
主人のみつ女が年寄沢野から侮辱をうけ自害した
ただちに沢野を訪ねて 主の自害した小脇差で仇を討った
という烈女で 後に賞せられ年寄りになったと伝えられている
歌舞伎の「加賀見山旧錦絵」のヒロインのモデルとなった
朝食はホテルバイキング |
夕食は自由食
商店街外食組
コンビニ食組
イトウヨーカドウー 買物組
他 いろいろ
二日目 12月7日
藤 沢 宿 本陣一軒 脇本陣一軒 宿内人別4089人(平塚から3里半)
正面丘の上に描かれているいるのが 遊行寺であるが 街道はこの寺の前を通ってこの鳥居の
ところにくる
大鋸橋(だいぎりばし)を渡って4人の座頭たちが通り抜けようとしている鳥居は江ノ島弁天への
入り口である 橋の上で鉢巻をして大きな木太刀を担いでいる人は これから大山参りに行く人
大山(おおやま)(標高1253m)大山阿夫利神社があり商売繁盛の神で参詣者が多い
橋向こうの民家の屋根を低めに描かれ背後の遊行寺のある山が高々と表現されている
一遍上人 |
本堂 |
宗 派 時宗遊行派
本 尊 阿弥陀如来
創 建 正中2年(1325)
開 山 他阿呑海
開 基 保野五郎景平
時宗開祖の一遍は踊念仏を広め「決定往生六十万人」と
書いた紙の札(賦算札)を配って全国を遊行した
大銀杏 |
まあァきれい |
画面右に架かる橋は大橋といい柏尾川が流れている 橋の手前には「左かまくら道」と書いた
道標が立つ。橋の手前の吉田町には「こめや」の看板を掛けた店があり 軒先には「大山講中」
「神田請中」などの札がかかっているので この店は請中が定宿とした旅籠であろう
馬に乗ってきた旅人が宿に着くや否や縁台にあせって飛び降りている 厠へでも急ぐのであろうか店の女はあわてて客を迎えに出てきた
店先では旅の女が一休みしようと菅笠の紐を解こうとし 橋を渡る旅人も一休みしようと笠を脱いで小脇にかかえている
道路の敷石 |
品濃の一里塚 |
道を挟んで ほぼ東西に二つの塚が残っている
保土ヶ谷宿 本陣一軒 脇本陣三軒 宿内人別2928人(戸塚から2里9町)
橋の手前 帷子(かたびら)町と向かいの神戸(ごうど)町の間に帷子川が流れており
架けられている橋を新町橋といった(現在も新町橋)はある
橋の上でこちらを振り返っている深網笠をかぶった男は尺八を袋に入れて腰に差した
虚無僧であり
その後ろから駕籠に乗った武士が家来と両掛を担ぐ用人を伴って続く
反対側からは男の一団が橋に向けて曲がろうとしている 橋のたもとには二八蕎麦屋がある
画面左の田んぼ道を農具を担いだ農夫と息子がとぼとぼ歩いている
焼餅坂 |
昔の旅人にとって 日本橋を出発してから最初の難所で
このあたりには 一服する旅人目当てに茶店が並んでおり
坂の傍らで焼餅を売っていた
境木延命地蔵尊 |
境木(さかいぎ)延命地蔵尊
武蔵と相模の国境の峠にある地蔵堂の裏には無縁仏の墓
が並ぶ 行き倒れの旅人を葬って供養したのであろう
神奈川宿 本陣二軒 脇本陣なし 宿内人別5793人(保土ヶ谷から1里9町)
神奈川宿の台町は海に迫った景勝地で急な坂道を上る人々を描いている
茶屋の女に手をひかれて 仕方なく立ち寄ろうとする人 なんとか手を振り払おうとする人
最後部には六部笠をかぶり仏像を入れた厨子を背負った六部(巡礼)がおり その前を
巡礼の父と娘が行く
宿の欄干上の赤提灯の後方に細い洲崎が見えるが これが開港前の横浜村から突き出た
陸地である 船が「く」の字を描いて陸地に戻るというものだ
横浜中華街
横浜中華街 |
中国小物店 |
4種前菜の盛合わせ 豚もも肉とターサイの炒め 三種点心 海老のチリソース
椎茸入りふかひれスープ サーモン入りりチャーハン タピオカ入りココナツミルク
北京ダックを吊り下げた店 |
聘珍樓 創業130年 |
(
慶雲寺 (浦島観世音 浦島寺)
浦島 |
亀の手水鉢 |
ガイド氏が小さい穴から見られると云われ 交代で必死で覗くがお堂は暗くて拝むことは
出来ず 誰も彼も諦める
松並木 |
復元された高札場 |
川崎宿 本陣二軒 脇本陣なし 宿内人別2433人(神奈川から二里半)
江戸から出立して最初の大河はこの多摩川で街道では六郷の里で六郷川といい 109間の
大橋が架けられていたが 度々洪水にあって流されてしまい 元禄年間に渡し舟となった
船中にはのんびりと煙草をふかす行商人や 川崎大師へ厄除け参りする女たちの姿が描かれ
ている
対岸では船の到着を待ちわびる馬子や駕籠かきとその客などの様子が描かれ 奥の船場会所
では ひとりの旅人が渡し賃を払っている
船頭が渡し場へ向けて最後の力をふりしぼってふんばる棹の直線と 船体が織りなす鋭角が
画面を引き締めている
江戸時代生活絵図と酒徳利 |
川崎宿交流館 |
川崎宿の街道や歴史 文化を映像と模型を組み合わせた展示などで追体験できる
多摩川(六郷川) |
六郷橋 |
六郷の渡し跡
東京都と神奈川県の境を流れる多摩川の最下流部の川名で六郷橋の付近から下流をさす
止の天神 |
止の塚 |
八代将軍徳川吉宗が乗った馬が暴走した時 北野天神のご加護のおかげで落馬を免れたと
されたことから 以来「落馬止め」が転じて「落ちない」につながり 「止めの天神」と呼ばれる
品川宿 本陣一軒 脇本陣二軒 宿内人別6890人(川崎から2里半)
右側の崖は八ッ山でその裾には宿場の境を示す榜示杭が立つ
大名行列のしんがりを務めるのは 弓を担いだ足軽と両掛の挟み箱を担ぐ中間である
宿場の入り口でかしこまって迎えている右側の人たちは 宿場役人であろうか
反対側の茶屋の女達が無関心に立っているのが対照的である
海がはるか沖合いの水平線まで描かれ帆を下ろして停泊中の船や 帆を張ってゆっくり
動き出している船も四艘描かれ海の広がりを感じる
品川プリンスホテル 泊
セレブなお店が並ぶ |
・イーストタワー・アネックスタワー
ロビーでルームの説明を聞く
他団体客もあり迷子になりそう
エスカレーターで上り左へ曲がって
エレベーターに乗り右の廊下を・・・
やっとたどり着いたルームは狭く
バスルームも狭くてがっかり
大広間で
豪華懐石料理に
やっとくつろぐ
三日目 12月8日
品川プリンスホテル39階ビュッフエから富士山見つけた |
バイキング |
前に広がる景色を眺めながら楽しい朝食 |
大石内蔵助墓の両側に四十七士 |
泉岳寺
宗派 曹洞宗
本尊 釈迦如来
創建 慶長17年(1612)
開基 門庵宗関
むかしむかし小学校の行事で5年生 6年生は例年12月14日は 山科の大石神社まで
山越えを頑張って歩いた。大石神社では甘酒がふるまわれて 体が温まり嬉しかった
1950年頃 大仏次郎著の「赤穂浪士」の朗読をNHKラジオで家族中が夢中に聞いていた
この墓前で浪士の名を一基一基読んでいくうちに 涙が止まらなくなり無言で辞した
増上寺
徳川家霊廟 |
本堂 |
宗派 浄土宗鎮西派
本尊 阿弥陀如来
創建 明徳4年(1393)
開基 聖聡
40人程の僧侶の讀経が堂内に荘厳に響いていた
レストラン フルコース
日本橋3丁目に「八重州」の地名の由来
1600年(慶長5年)オランダ船リーフデ号の航海士「ヤン・ヨーステン」は嵐に遭遇して
豊後国(大分県)に漂着した
徳川家康に取り立てられ国際情勢の通訳として活躍し、家康にこの地に屋敷を与られた
ヤン・ヨーステンの和名「耶楊子(ヤヨウス)がなまり「八重州」になったとされる
日 本 橋
「お江戸日本橋七つ立ち」の歌にあるように 七つは(冬場午前4時頃 夏場午前2時半頃)
大木戸も開いたばかり。弓形に盛り上がった橋の向こうから 大名行列の一行が現れる
先箱持を先頭に白熊槍持 白鳥槍持 従士と人が湧いてくるようにやってくる
高札場前には 魚河岸で仕入れた魚を天秤棒で担ぐ棒手振 野菜売りなどが早朝の
賑わいを見せる
日本橋 |
道路元標 |
1601年(慶長6年)徳川家康が
五街道を整備した
東海道 中山道 日光街道 奥州街道 甲州街道
路上で一同 一斉にバンザイ三唱 講師 添乗員 参加者24名
完歩賞 記念品 授与後 解散 自由行動(皇居参観 銀座散歩・・・)
江戸ー京都 里程124里8丁 487㎞ 飛脚3~4日 歩いて2週間
新幹線 東京駅(17:20)=京都駅(19:38)=新大阪(19:53) 2時間30分
(お疲れさま!)