2019年7月13日土曜日

文学 歴史ウオーク(北野田)


織田作之助「夫婦善哉」を書いた北野田
                            2019-7-7   49名
 コース
  南海高野線北野田駅(9:30〉-堺市立東文化会館(講演・昼食)-野田城址ー
  伊勢道を経由し登美丘裏門近く西野文化村界隈ー大美野ロータリーと噴水ー
  丈6の織田作之助長屋ー北野田駅 (15:00 約3キロ)

  講師 井村身恒先生  著書「織田作之助の大阪」「私のオダサク」他多数 

講義
      井村躬恒先生
  1952年 堺生まれ堺育ち オダサク俱楽部代表
  著書「織田作之助の大阪」「私のオダサク」他・・



ぶらぶら探訪出発



 織田作之助「わが村」から
 なんとといふ理由もなしにこの村に住んでいるが訪れて
 来る人に言わせると、金剛、葛城、笠置その他の山々が
 見え、家の前には古い池があり なんとも環境の良い
 土地であるらしい・・・・・
 この草深い村が文化村といふ別名を持ってゐることの
   方が面白い

南海高野線




織田作之助が深夜酒に酔ってふらふらと帰る途中、水の流れ
に気が付くと鉄橋の上を歩いていたらしい

野田城址


 野田城址
 正中3年(1326)に野田荘の地頭をしていた野田四郎正勝が
 穂出籬山(ホデガキヤマ)の高台に築いた城
 楠木軍の掃討にあった野田氏は それ以降南朝の後醍醐天皇を
 奉り楠木氏に忠誠を尽くした
 三代目の兵部正康は 足利の大軍に包囲されたため 野田城に
 火を放って城外で戦い凄惨な戦場となり野田村は壊滅状態と
 なった

弘法大師御堂建立碑
伊勢道



和泉から河内に入る街道で 福町で西高野街道と連絡して
登美丘にはいる
昔から和泉地方からの伊勢詣でに使われた主要な街道で
北の竹内街道 南の河泉街道と並んで河内を横断する重要な
街道であった





   大美野ロータリーと噴水       堺市東区大美野
大美野ロータリー

バス停













 8本の道路が交わるロータリー交差点で中央島には噴水がある
 ここ大美野は関西土地会社が昭和6年(1931)に開発・分譲した 泉北でも指折りの
 歴史ががある住宅地で第一期の開発に先立ちヨーロッパを視察した技師下村喜三郎に
 よる宅地設計で 中央の噴水は分譲当初から存在していた
   見ていると車はロータリーを回って方向を変えていく
                (戦前はおしゃれな住宅が立ち並んでいたそうな)

 織田作之助長屋跡        堺市東区丈六
「オダサク」はここに住んでいました
家賃25円
      










              

                       
 愛妻一枝さんは良妻賢母型の良くできた婦人で昭和19年子宮癌に襲われ8月6日死去
                                   享年30歳
 :妻一枝午前十時十分過ぎ永眠す夜に入りて颱風となる。     
    風の音天を恨むが如し、一枝あわれ、一枝あわれ。:
               (いつも写真と髪の毛をポケットに入れていたそうな)

 織田作之助  大正2年(1913)~昭和22年(1947)  33歳没
 大阪市の仕出し屋の家にうまれる。三高時代から文学に傾倒し,昭和12年(1937)に
 青山光仁らと同人誌『海風』を創刊。自伝的小説「雨」を発表して注目される 
 昭和14年「俗臭」が芥川賞候補、翌年「夫婦善哉」が『文芸』推薦作となる
 昭和21年に当時の世俗を活写した短篇「世相」で売れっ子となった。
 12月ヒロポンを打ちつつ「土曜夫人」を執筆中喀血し、翌年1月死去。
  
  映画 夫婦善哉   森繫久彌 淡島千景 司葉子 浪花千栄子
     大店のドラ息子と芸者をしながら男の面倒を見る女の様子を描いた作品
    「頼りにしてまっせおばはん」「おおきに」軽妙な語り口と仕草を思い出す
     第6回ブルーリボン賞 第10回毎日映画コンクール賞      おわり