2019年6月1日土曜日

文学 歴史ウオーク (京都)

     京都 太秦史跡めぐり
                          2019-5-12   49名
  コース
  地下鉄東西線太秦天神川駅(9:30)ー京都学園大学(講演・昼食)-蚕ノ社ー
  -大酒神社ー広隆寺ー大映通りー三吉稲荷神社ー蛇塚古墳ー仲野親王高畠陵ー
  -嵐電帷子ノ辻駅 解散

  京都科学先端大学(京都学園大学)        京都市右京区山ノ内5反田町

京都学園大学の講義室を借りる
(2019年4月京都科先端大学に改名)

松本正樹氏の講義


      



  




  1500年の時空を超えて渡来人秦氏が古代山背葛野郡(ヤマシロカドノグン)の建設と
  平安京の成り立ちに活躍した
  代表的な渡来人   ・ 秦(ハタ)氏 平安京遷都に多大な貢献
            ・ 漢(アヤ)氏 奈良を本拠地 学術系 政府の記録
                         坂上田村麻呂も漢氏の一族



  講義の後は休憩室でゆっくりお弁当を食べる
         

   


      

  蚕ノ社カイコノヤシロ)木嶋座天照御魂神社コノシマニマスアマテルミタマジンジャ)
                                 京都市右京区太秦森ケ東町

木嶋座天照御魂神社
古代を彷彿とさせる鳥居












 その昔 平地が広がるこの一帯にこんもりと巨樹が生い茂る
 森がまるで島のようであったことから「この島」と呼ばれた

                                 創建  7世紀はじめ
                                 祭神  天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)
                                            大國魂神  (オオクニタマノカミ〉
               穂々出見命 (ホホデミノミコト)
               鵜茅葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)
                       瓊瓊杵尊  (ニニギノミコト
  地域の農耕 学問 罪や汚れを祓う土着神として祀られていたが秦氏がこの地域へ
  進出と共に秦氏の主な産業の一つである機織り技術の発展を祈る養蚕神社として
  祀られてきた
縮緬仲間
文化14年(1817)西陣の織屋の組合が奉納

拝殿










三柱鳥居




      三柱鳥居  
     宇宙の中心を表し四方より拝する事ができる
     1説には 秦氏に関係の深い遥拝所かも?
      双ヶ岡(松尾山 松尾大社)
               稲荷山(伏見稲荷神社)
        

大酒神社

  大酒神社     京都市右京区太秦蜂岡町
       祭神  秦始皇帝
           弓月王(ユンズキノキミ
           秦酒公(ハタノサケノキミ
       創建  不詳
  
社殿






  応神天皇の時代秦始皇帝の13代目の孫とされる
  弓月君が多くの人々(18,670余人)を率いて渡来し
  養蚕 機織りの職にて朝廷に仕えたその子孫が秦氏で
  ぞの祖先を祀っている
                                                         大陸から難を逃れてきた人々に朝廷が安住の地を提供した
                                                         大避神社とも称する
  
  大陸から移り住んだ人々は朝廷へのお礼として 高度な技術で作られた養蚕や機械を
  献上したとされる(機織 農耕 造酒 土木 管絃 工匠等)
  太秦
  秦酒公が生み出した多くの品が積み重なっているさまを「うず高い」と呼び
  天皇が非常に喜んだ様子を「埋益(うずまさ)」とも言うことから秦酒公に
  禹豆麻佐(うずまさ)の姓を預けたとされている
           603年 秦河勝   広隆寺         建立
       701年 秦忌寸都理 松尾大社    建立
       712年 秦伊呂具  伏見稲荷大社  建立

   広隆寺             京都市右京区太秦蜂岡町

本堂
山門











         宗派 真言系単立
    本尊 聖徳太子
    創建 推古天皇11年(603)又は(622)
    開基 秦河勝 
       秦氏は秦(中国)から朝鮮半島を通って渡来した漢民族系帰化人
       広隆寺は 弘仁9年(818】全焼・・・久安6年(1150)全焼
       永万元年(1165)落慶法要
   (有名な弥勒菩薩には時間の都合で拝観出来ず、後日改めてお参りしたいと思う)

  大映通り         右京区大映通り(桂原町 多藪町 堀ヶ内町)












  嵐電「太秦広隆寺」から「帷子ノ辻」に至る全長700メートルの商店街
  大映の映画撮影所と共に発展し かっては撮影の合間に映画スターが衣装のままで
  通りを歩いていた
牧野省三顕彰碑


三吉稲荷神社 中里八萬大菩薩

                    








   三吉(サンキチ)稲荷神社  中里八萬大菩薩
 この地一帯は8丁藪という竹藪が広がっていた この竹藪の中に小さな祠あった
 牧野省三 明治11年(1878)~昭和4年(1929)
      日本映画の先駆者として企業と芸術の両面に尽力した
      プロデューサー制度の確立や教育映画事業の創始者であった

  仲野親王高畠陵          京都市右京区太秦垂箕山町

   仲野親王(792)~(867)
   桓武天皇の第12皇子「奏寿宣命」(寿詞を奏し宣命を読誦)の模範とされていた


仲野親王高畠陵


仲野親王高畠陵







 


 蛇塚古墳      京都市右京区太秦面影町
前方後円墳

蛇塚古墳









内部

   名称の由来は石室内に蛇が棲息していた6世紀~7世紀と推定される
   石室はチヤート(堆積岩)奈良の石舞台は花崗岩 

   長さ75メートル 石室17,8メートル  奈良の石舞台古墳に匹敵する
    秦氏の首長墓と推測される        
    京都市内にこんな秘境があったとは知らなかった


 嵐電帷子ノ辻駅前で解散 
 ちなみに「帷子ノ辻」(かたびらのつじ)とは平安時代のはじめ嵯峨天皇の皇后は美貌の
 持ち主であった。皇后がなくなり葬送の車が嵯峨深山谷に向かう途中風が吹いてきて
 棺を覆っていた経帷子(きょうかたびら)が散り落ちたこの辻が言われるようになった
                                   終わり


2019年5月2日木曜日

宇治茶摘み





 八十八夜茶摘みの集い


                              令和元年5月2日

 京阪宇治駅➡JR宇治駅➡宇治茶会館 (10:00~15:00)   

乗り場に続々と人が並ぶ


宇治茶会間行シャトルバス








  バスはすぐに満席,満杯になり待ち時間が40分立ちんぼでやっと乗車するが渋滞してる


茶園は矢印の方向に
茶摘み娘「いらっしゃーい」
             

                             








 茶の摘み方には手摘みと鋏摘みがあり、高級茶は「手摘み」で玉露・てん茶(抹茶の
 原料)などでおおい下茶園の茶摘みで行われています
 煎茶はほとんどがはさみ摘みで行われている

  

上手に摘んだねええ

   

                                             









   始めての茶摘み体験で柔らかい葉っぱを確認しながらも
   夢中になって小さいポリ袋にぐんぐん押しこんで入れる

  (但し持ち帰った茶葉を飲めるようにするには3~4時間
   の工程が必要で、大変ですよ
   天ぷらにしてもよし。さっと茹でてポン酢で食べるもよし)




宇治茶の郷記念碑
子供たちに大人気











                
 玉露の淹れ方教室


玉露の入れ方実践
美味しい玉露を味わう









  1人分5g
  <1煎目>
  ポットのお湯(90℃)→急須(80℃)→湯冷まし(70℃)→湯吞(60℃)→
  少し待つ(湯吞を触って温度を確認)→玉露を急須に入れる→
  お湯を急須(40℃)にゆっくり注ぐ。
  湯量は玉露の葉と同量程度。葉が吸水して水面が見えなくなったころ(目安2分)
  湯吞に最後の一滴まで注ぐ
    ・ 口のなかに何とも言えない甘いうま味が広がる
  <2煎目>
  湯冷まし(80℃)→急須(50℃)ゆっくり注いで約1分待つ 最後の一滴まで注ぐ
  <3煎目>
  湯冷まし(80℃)→急須(60℃)少し待つ(30秒~40秒)最後の一滴まで注ぐ
  <4煎目>
  湯冷まし(80℃)→急須(70℃)ひと呼吸置いて最後の一滴まで注ぐ

   4煎目の後に茶葉をポン酢で食べる         
 
  玉露の美味しさを充分に味わって帰路につくが 宇治市内は連休中の交通渋滞で
  満員のシャトルバスは遅々として、やーっと駅に着くと「お疲れ様でした」と
  にこやかな運転手さんの言葉にほんわかした気分になり「宇治」はいいなと思った
                                  おわり




2019年4月14日日曜日

海津大崎さくらウオーキング







  琵琶湖 海津大崎・鯖街道 熊川宿
                           2019-4-11   24名

  行程
  近鉄竹田駅(9:00)=海津大崎(4㌔ウオーキング)=メタセコイヤ並木=
  =鯖街道 熊川宿(自由散策)=竹田(18:00)着

道の駅妹子の郷(トイレ休憩)
奈良観光バス






  

           湖岸約4㌔に続く桜のトンネルをフリーウオーク(滞在時間約3時間)













      バス観光の人達は湖岸の石のゴロゴロ道を思い思いに語りながら歩く
     湖岸道路はサイクリングで楽しんで走ってる
     車もひっきりなしに通り抜ける

まだまだ続く桜の湖岸
義経の隠れ岩
奥州に逃れる時に身を隠した伝説












  800年前の義経の逃避行の際のびわ湖の風情はどうであったろうか波打際のさざ波
 の音に寂しさを感じる
   謡曲「安宅」
 ・・・・霞ぞ春は羨めしき 波路遥かに行く舟の 海津の浦に着きにけり・・・・・・

    
  大崎寺           高島市マキノ町海津
本殿

門前


 宗派  真言宗
 本尊  十一面観世音

 開基  泰澄上人
 創建  大宝二年
       (702)
 近江西国三十三ヵ所
 霊場十九番札所



 元は奈良の興福寺の末寺で僧房三十九の大寺院であったが鎌倉時代に荒廃する
 阿弥陀堂のご本尊阿弥陀如来像は聖徳太子の作といわれている
 「安土の血天井」
 豊臣秀吉が諸国仏閣を復興した時に安土城落城で血のついた城材をそのまま貼った

 
  海津天神社      滋賀県高島市マキノ町海津

参道  拝殿
小野社 天神社 大鍬社











        主祭神 菅原道真   創 建 延暦23(804)
  平安時代末期に現在の海津上尾山(かいづかみおやま)の地に勧請したのが始まり 
  *平安末期の紙本墨書法華経十巻(重要文財) 板絵着色絵馬(県指定文財)   
  室町時代初期にかけて奉納されたものが残っており 当時の海津の繁栄と天神信仰が
  うかがわれる

   マキノメタセコイヤ         滋賀県マキノ町蛭口~牧野

メタセコイヤ並木

植樹   昭和56年 500本
距離   全長2,5 キロ 
中国原産 メタセコイヤ 
和名   アケボノスギ
                  
四季折々どの時期に来てもこの真っ直 
ぐに突き抜け並木は美しい
                  
韓流ドラマ「冬のそなた」で有名に 
なった  
                      


  鯖街道 熊川宿          福井県三方上中郡若桜町熊川

番所役人模型
熊川宿番所跡

  
 
  

                   






 戦国時代の終わり頃 交通、軍事の要衝として小浜城主浅野長政に保護され宿場町
 として誕生した、大陸文化や海の幸が、この街道往来し畿内へと運ばれた

松木神社

  江戸時代のはじめ厳しい年貢の取り立てに苦しむ
  若狭の農民の代表となり自ら領主に直訴一命を捨てて
  悲願を達成させた松木庄左衛門の霊を祀っている
   
熊川郵便局跡
                                              






 ボランティアガイドの地元らしい説明があったり
 お汁粉や葛餅がふるまわれて地域の活性化を感じる 
                    (終わり)

2019年4月8日月曜日

法然院


  寺は何を伝えるところか
                            2019-3-29  28名
                              


  善気山 法然院 萬無教寺          京都市左京区鹿ヶ谷御所ノ段町

山門
        宗旨  浄土宗
   宗派  単立
   本尊  阿弥陀如来
   創建  鎌倉時代初期
   開基  法然
   
方丈襖絵 狩野光信筆とされているが孝信筆とも言われている
1687年(貞享4年)もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿を移建したものである

中庭の向こうは茶室


    

落椿を集めて



                







  法話      第31代貫主 梶田真章(かじたしんしょう)

     室町時代中頃以降、多くの日本人はご先祖様や村の鎮守様に守られているという
  先祖教徒として生きてきたので7万5千を超える寺は先祖供養、現世利益、観光に
  よって残ってきました

  寺は佛法を伝える場としては殆ど役割をはたさず、今日、毎年三万人以上も自殺
  される方がおられる責任は、寺を預かりながら佛法を説いてこなかった私どもに
  あると云わねばなりません

  法然上人の佛教に親しんでいる私は、死者は極楽の菩薩となられ、成佛され、衆生
  への慈悲の心に生きて下さると信じております。

  二千数百年前にお釈迦様は人間の煩悩や執着が自らを苦しめていることを
  「一切皆苦」と言い表した
  私たちが少なからず「人生、思い通りにいくはずだ」と思っているからこそ「苦」
  が生じる。お釈迦様はそれを一言で「一切皆苦」とおっしゃいました。あなたの
  苦しみの原因はあなたの愛にありますよ、と。自己を愛していること、故郷を愛し
  ていること,要は、自らの執着にあるということです。

  お寺へ来られる目的も一般的には花を見るというような楽しみのためで、自己を
  問うためにいらっしゃる方は少数派、極端に云うと、見た目が美しいか否かが
  判断基準になってしまいます

  見た目の美しさを現代の人々は求めてしまいがちで、そこを問い直していただく
  ことは容易なことではありませんが、でも諦めないで問うていただくように努力
  をするのが寺の役割で、坊主の役割だと私は思っています。     合掌


御伽
梶田真章老師












花笠椿

貴 椿(あてつばき)














   梶田真章貫主
   1956年9月 浄土宗大本山黒谷金戒光明寺の
          塔頭常光院にうまれる
   1980年3月 大阪外語大学ドイツ語科卒業
   1984年7月 法然院第31代貫主に就任
   1985年11月 境内の環境を生かして
         「法然院森の教室」を始める
  



  鎌倉時代の初め 専修念仏の元祖法然房源空上人は 鹿ケ谷の草庵で弟子の
  安楽 住蓮と共に念仏三味の別行を修し六時礼賛を唱えられた

  1206年(建永元年)12月後鳥羽上皇の熊野臨幸の留守中に、院の女房松虫、鈴虫
  が安楽・住蓮を慕って出家し上皇の逆鱗に触れるという事件が生じ、       
  法然上人は讃岐国へ流罪、安楽、住蓮は死罪となり その後草庵は荒廃する

  江戸時代初期1680年(延宝8年)知恩院第38世萬無和尚は 元祖法然上人ゆかりの
  地に念仏道場を建立することを発願し 弟子の忍澂和尚(にんちょう)によって
  現在の伽藍の基礎が築かれた

  非公開ながら 谷崎潤一郎。九鬼周造〔哲学者)河上肇(経済学者)の墓地がある